月琴の製作者について(1)
![]() 古い楽器を修理したりしていると,「あ~,この楽器はどんな人が作ったんだろうなあ」という思いにかられることがあります。 ある月琴は胴材の擦り合わせがすばらしく,ある月琴は棹から糸倉のラインが夢のよう…明治末のころの月琴だと,近代的な工作機械で加工したらしいのもありますが,それでも楽器は手工による部分が多いものですから,作り手の巧拙や手先の感覚が,修理してると弾いてると,なんとなく伝わって,分かってくるのです。 けれど国内の月琴の製作者についての記録は,ほとんど見かけたことがありません。 たとえば『明治閨秀美譚』(M.25 鈴木光次郎)などという本にのっている明清楽の演奏家・長原梅園の伝記中に,彼女の使用していた月琴が「初代天華齋作にて,逸雲・卓文君等の二名器とともに渡来せるもの」であったという記述があり,名人の名前が見えますが,これも月琴が輸入品であったころの,大陸における古い作者の話です。 いまも続く十字屋楽器さんが明治のころ月琴も扱っていた,とか明清楽の独習本の巻末に,楽器の販売元や価格一覧がついてたりするので,いくつかの製造元や職人の名前は分かっているのですが,そうしたものの実物には,意外とお目にかかったことがありません。 庵主自身こういう時,まだどこをどう探せばいいのか,ちゃんと分かってないフシもあるんですが,とりあえず今回は,最近,偶然にも分かったあたりのおハナシを。 十六夜月琴 ![]() 先日修理の終わった「十六夜月琴」の裏面には,製造元のラベルの断片がちょっとだけ残っていました。 こうした月琴の製造元ラベルは,読みとれないような文字で書かれた,古くさい木版の印判であることも多いのですが,これはちゃんと精緻な銅版印刷で刷られていたので,断片ながら,上に「博覧会」「第5回」,中に「東京」,下に「齋二記」といったところが確実に読み取れます。おかげで,たったこれだけではありましたが,製造元が分かりました。 といっても,過去に拾ってきた画像資料をあたってこれに近いものを探しただけのことですが。 このラベルはどうやら「清琴齋」(清琴齋二記山田)というメーカーのもののようです。 ![]() 上のラベルで,真ん中に描かれていた円形の模様は,明治期に開かれていた「内国勧業博覧会」の受賞メダルのようです。 同定作業で参考にしたほかの月琴の画像(右)では,このメダルは第2回(明治23年)のものだけでしたが,十六夜月琴のラベルには,大阪で開かれた「第5回内国勧業博覧会」(明治36年 1903)のメダルも加えられてます。 ――ということは,この月琴が作られたのは1903年以降となるわけですね。明清楽はこのころすでにかなり衰退の色を見せ,明治の40年代になると楽器もあまり作られなくなったと言いますから,ここからそんなに遠くない年のことでしょう。 思いがけず製作年代の手がかりなんかも得られました。 第2回の方は分からなかったんですが,国会図書館のアーカイブで第5回の受賞者リスト(『第五回内国勧業博覧会受賞人名録』M.36)を調べてみると,この回には「浅草区蔵前片町 山田縫三郎」が尺八で三等,箏・月琴・木琴・清笛で褒状を受けています。 同回における東京からの出展者で,楽器を扱い,「山田」姓のものは彼のみですから,この「清琴齋」はこの「山田縫三郎」の号である可能性が高いですね。Webでいろいろと調べたところ,明清楽器のみならず,鈴木政吉とほぼ同時期にバイオリンを製作したとか,縦笛型ハーモニカの独習本『吹風琴独案内』を編著するなど,手の広い製作・販売者だったようです。 ![]() この「清琴齋」のマークのついた明清楽器は,東京芸術大学にも何本か所蔵されているようですし,ほかでもけっこう見かけますから,明治末期のころには大手のメーカーだったと思われます。 糸倉の弦池の彫り込みなどは精確に真四角で,内側にも手工具によったときに見られる歪みや加工痕がほとんど見られないことから,規模は大きくないとしても,おそらくは近代的な工作機械によって,ある程度の数を加工・量産していたのではないかと考えています。 ちなみに,人名録にあった「浅草区蔵前片町」は,今の蔵前1丁目から2丁目にかけてにあった地名で,江戸時代から大きな商業地域だったところです。 この一帯は関東大震災や戦災で大きな被害を受け,古いものは少なくなってますが,こんど何となく散歩でもしてみましょう。 5号・鶴壽堂月琴 ![]() 裏面に「鶴壽堂」のラベルのあったこの月琴。 内部の墨書から,明治35か36年(奇しくも「十六夜」と同じころですね)に,名古屋で作られたものであることは分かってましたが,庵主,手書きの字の判読がニガテなんで,分かったのは。
![]() というところ。 この解読も含めてその後,ずっと手詰まり状態だったんですが,最近,『愛知県実業家人名録』(M.27)という明治時代の人名録を見ていたら―― ![]() 琴・三味線・明清楽器・西洋楽器 上園町三丁目 [山治(屋号)] 鶴屋 林治兵衛 ――という方を発見しました。 隣にある広告主は,前の記事でもちらと出てきた鈴木バイオリンの政吉さんですね。 西洋楽器も扱ってるようなので,裏面墨書の「和洋楽器」ていうのとも合致。 これでもってあらためて墨書の字を読み直してみると,表面ウラの三行目は「鶴屋治兵衛」「製造」,裏板ウラの三行目も「鶴[心]〓居」とかではなく「鶴屋治兵衛」を崩したものではないかと思います――先にも述べたとおり,手書き文字の判読はニガテなんで,自信はありませんが。 こちらについてはこれ以上資料がなく,ここまで。 ![]() 「鶴壽堂」の月琴については,最近,前に直したものよりいくらか上級の月琴が一本,ネオクにあがっていました。象牙のフレット,彫刻のある半月,玉石の扇飾りなど高級感ある飾りが付いていましたが,ラベルもまったく同じものですし,棹頸のカタチや,指板,明るい黄色の木部など,基本的な工作の特徴はほとんどいっしょでした。 当時の独習本の巻末などに載っている販売楽器の価格表などを見ると,高級品では5円,7円などというものもありましたが,低級品は1円前後からあったようです。明治38年ごろで,お米10kgが1円19銭だったそうですから,現在の値段に直すと,月琴は最低ランクので5~6000円,高いのは4~5万円てあたりだったと思います。 琵琶が12円からとなっているのあたりと比べると,まあ庶民でも手を出せる値段だったのではないでしょうか? これも月琴が流行した理由の一つだったのかもしれません。 5号「鶴壽堂」については修理中から,見かけは中級,普及品なのに,内部構造や本体の材質・工作がけっこうしっかりしていたことが印象的でした。音も良かった。おそらくこの店では,月琴の等級は,半月や蓮頭,お飾りの材質での格差で,本体の工作などはどれもほぼ均一に,同じ材質で同様に行われていたのではないかと思われます。まあ良心的。 楽器商「林治兵衛」の名前は,明治42年の『名古屋商工人名録』にも見えますが,こちらでは住所が「西区下長者町一丁目」に変わってます。 いづれ名古屋に行ったときには,「鶴屋」さんのあった場所なぞ訪ねてみたいものです。 |