清楽の人々
![]() ![]() この古い写真は,つい最近,ネオクで落としたものです。 普通の人には琵琶くらいしか分からないかもしれませんが,明清楽の演奏風景。 古い紙焼き写真を周囲を添金した厚紙に貼り付けてあり,厚紙の裏面には,写っている人物と,撮影者の名前が書かれています。 当初は 「あ,月琴が写ってる。」 というくらいの気づもりで入札したのですが,調べてみると,これがけっこうタイヘンなもので。 -----まあ,庵主にとっては,ですが。 ![]() 撮影されたのは明治二十五年七月三十一日。 西暦に直すと1892年-----そうするとこれは,117年もむかしの光景なわけですね。 今回はこの写真と,そこに写っている人々,楽器について,調べたことを書いてみましょう。 ![]() 裏面に列記された名前の順番からゆくと,右端の「明笛」を手に持った老紳士が 「津田旭庵」。 どうやらまだ,頭にはチョンマゲを結っているようです。 明治8年発行の東京の芸人録,『諸芸人名録』の「清楽」の部にも---- 池ノ端カヤ丁 津田旭庵 と記されていますが,『中日音楽交流史』(張前 人民音楽 1999)などによれば,この津田旭庵さんという人は,なんとお江戸明清楽の祖,鏑木渓庵の直弟子の一人であるようです。 見た目の風格から言っても,順番から言っても,この中でおそらくいちばんエラい人でしょう。 ![]() つぎの「月琴」を弾いてるおヒゲの方が 「三上聖道」。 次の年若い青年の持っているのは,おそらく 「提琴(テイキン)」 だと思います。 現在の中国楽器で言うと「板胡(バンフー)」の類ですね。 四弦のものもあるようですが,この楽器では軸が2本しか確認できませんね。 裏書の順からいくと彼が 「中島春久」。 ![]() つぎの楽器は 「唐琵琶(トウビワ)」。 雅楽の琵琶や,薩摩・筑前よりは現在中国の「琵琶(ピーパー)」に近いもので,フレットは14本。 撥ではなく,指に月琴のと同じような長い義甲をつまんでいるのが,なんとか見えます。 この人は 「増田元子」 さんですね。 おつぎの古風な老婦人が 「津田八重」。 旭庵さんの奥さんでしょうか。 なんと持っている楽器は 「阮咸(ゲンカン)」 です。 自分でも作っといて何ですが(「ゴッタン阮咸」参照)。 この楽器,今ではほとんど弾く人が絶えてしまっているので,演奏姿勢が見られるのは珍しいのです。 資料では 「爪弾くか,もしくは義甲を用いる」 とありますが,手元をよく見ると,これもどうやら月琴型の義甲を握っているようですね。 となると,最後の娘さんが「伊藤清子」さん----美人ですね。 前にある楽器は,一見日本のお琴のようですが---- 猫足が四本(お琴は2本),琴柱の位置もすこしおかしいですね。 琴背になにやら丸い飾りが.....サウンドホールでしょうか? さらに糸が,ふつうのお琴と違って左右のブリッジにピン止めされてます。 これは日本の明清楽独自の楽器といわれる 「洋琴(ヨウキン)」 だと思われます。 ![]() 音読すると同じになる中国の「揚琴(ヨウキン=ヤンチン)」は,西洋のダルシマーが明代にイタリアから伝わったものですが,これはそれを源流として,日本のお琴をベースにしてみた楽器,といったところでしょうか。 ふつうのお琴のように,指にツメをはめて弾かれることもあったようですが,写真の楽器は間違いなく,ダルシマー風に打奏されたもののようです。 よーく見ると,清子さん,手になにか先っぽの「へにゃ」っと曲がった,細い棒を持ってます。 たぶんこれがバチでしょう。 ![]() 撮影のいきさつは分かりません。 撮影場所についても記述がないので分かりませんが,もしかすると旭庵さんの自宅か稽古場でしょうか。 床の間の横の柱に,何か漢文の彫られた板が掛けてありますね。 残念ながらよく読めません。 書いてあるのが難しい漢詩か何かなら,宴会場や貸し座敷ではないと思いますが。 写真の保存状態から見ると,ずいぶん大切にされていたようです。 旭庵門下の記念写真だと思われますが,元の所有者はこの中の一人だったかもしれません。 ちなみに,当時の写真技術だとまだ,20秒くらいはそのまま動かないでいないとならなかったはず。 こういう室内だと,もっとかかったかもしれませんね。 旭庵大師匠はまさに静謐枯淡と端坐しておられますが,まだ写真機の珍しい時代,ただでさえ緊張して楽器を持って,そのままのポーズでいるのは,あんがいツラかったでしょうねえ。 「三上聖道」 「中島春久」 の両名については,どっかほかでも見た名前のような気がしてるのですが,今のところ思い出せずにいます。女性陣についてはまったく不明。 裏書の最後の方には,この写真を撮った人の名前があります。 これもまた興味深い。 技主 有藤金太郎 手伝 近藤操 ![]() ネットで調べると,「有藤金太郎」という人は,日本の写真術草創期に名を残す写真家の一人だそうです。 さて,その有藤さんの名前の前に, 「外国人門弟」 なんて書いてありますよね------こりゃなんでしょう? この写真の撮影時期に近い明治27年に彼が訳した『素人写真術』の奥付を見ると,彼の住所が 「麹町区永田町1丁目七番バルトン方」 となっています。 さらにその「バルトン」というのを追ってゆくと,これはかの 「浅草十二階(凌雲閣)」 を設計したお雇い英国人,W.K.バートン(William.K.burton,1855-1899)のことだと分かりました。 当時,帝大工科の教授だったようです。 写真好き だったことでも有名で,日本写真学会 創設者の一人でもあり,先に触れた有藤の訳著『素人写真術』も,アメリカ人原著の本を彼が編輯したものがベースになっているようです。 現在まだ有藤の詳しい履歴とか生没年が分からないので,バルトン氏との関係もはっきりとはしませんが,自宅に下宿してるぐらいだから,教授とその教え子だったのかもしれません。 有藤氏が当時帝大の学生だったとすると,本郷から旭庵さんの住んでいた池之端まではわずかな距離。 ふだんからこの「清楽の先生」と接近遭遇していたような可能性も考えられ,ちょっとドラマティックな連想などもしてしまいますね。 最後のお手伝いさん。「近藤操」もバルトンのお弟子さんらしいのですが,詳細不明。 庵主の月琴は独学で,明清楽の演奏は,明治期の資料をもとにあれこれ見ながら復元してます。 なかでもよく使っている資料は 「渓派」 の人たちのもの。 鏑木渓庵を祖とする渓派は,江戸~明治にかけて,東京では最大派閥でした。 今残ってる譜本や,そこに加えられた細かいアレンジの部分などを見ると,この派の人たちの演奏は,ほかの流派,たとえば連山派などの演奏にくらべると,概していかにも 「お江戸好み」 というか,軽快で派手やかなのが特徴だったようです。 同じ曲でも,ほかの派の譜では長い単音で弾いているようなところを,ぱらぱらぱらっと細かに流し弾き----おそらくは三味線音楽や俗曲の影響が強く,そういう手が自然に混じっているのだと思いますね。 東京で活動し,その渓派のお流れとして「お江戸流」を僭称している庵主のところに,ホンモノの「お江戸流」の人々の写った写真が舞い込んでくる。 まあ「月琴」なんていう,もともとごくせまいマニアックな楽器の世界の話しですから。 確率で言うと,たいしたことじゃないのかもしれませんが。 なんにゃら因縁じみたものも,感じてしまいますね。 |