16号菊芳2(4)
![]() STEP4 菊芳2於兎良・修理完了! ![]() はずしたお飾り類は少し褪せてしまっているので,スオウを染ませ,染め直しておきます----媒染は重曹とオハグロの上澄み,赤紫色ですね。 重曹水を作ったので,ついでに各部の清掃もしてしまいます。 まず棹ですが,厄介なことに指板に「朱漆」が使われてます---- 重曹はエコでベンリな天然洗剤ですが,漆器類にはNGなので,まずはキチンとマスキングをしておきます。 番手細かめの Shinex に重曹水を染ませてよく絞り,木地が濡れすぎないよう注意しながら,表面のヨゴレをこそいでゆきます。 糸倉の部分がかなり黒っぽくなってましたが,ほかはほとんどさしたることもなし。 ![]() ![]() 続いて表面板。側面をしっかりマスキングしておいて,こちらには #400 相当,ちょっと粗めの Shinex を使います。 ![]() ![]() こしこしこし…全体に煤けてはいますが,こちらにもさしたるヨゴレはありません。 このところ修理した楽器の多くは,ヤシャ液がかなりドギツク使われてましたが,菊芳さん,さすがに江戸ッ子----面板の塗装も,さっぱりあっさり薄め----ていうか,薄すぎてフレットとかお飾りのある楽器上部真ん中のあたりの色が,今回の修理で濡らしたせいもあり,さらに薄くボヤけてしまいました。 少し染め足しておきましょう。 二三日乾燥させて,さあ仕上げです! 今回の修理では,軸削りの次に手間な塗装作業がほとんどありません。 虎杢の胴体も棹も,軽くオイル拭きをしてロウ引きで仕上げます。 ![]() ![]() まずは糸倉・棹からまいりましょうか。 棹の材質はカツラ。 …けっこう色濃くなりましたね。 清掃のとき,わずかに茶色の汁が滲み出てきたので,おそらくはヤシャブシで軽く染めてあるのだと思います。 つぎは胴体。 面板清掃のときには全面をマスキングしましたが,今度は表裏面板の木口だけをマスキングします。 もちろん油まみれにするようなわけではないのですが,わずかな油でもここから入ると面板の縁にけっこう目立つ染みができたりします。表裏ともにわずか4ミリほどの幅ですが,けっこう慎重に,しっかりとマスキングしておきましょう。 ![]() ![]() ちょっと分かりにくいかもしれませんが,上右画像の左半分が油拭き前,右半分が作業後です。 Shinex に油をつけ,表面の清掃と同時に油拭きをし,同じものに仕上げ用のワックスをつけてさらに磨きあげます。 うむ,トラ杢がさらにトラトラに! 清掃と油拭きにより,側面の材質の木理が,よりはっきりと確認できるようになりました。 当初の鑑定では「カエデ」ということだったのですが,手元でもう一度,導管の形などから比較からすると「トチ」の可能性が高いかと思われます----正直まだ迷ってますがね。(汗) ![]() さて,いよいよフレッティングです。 16号,中級楽器の作りなわりには(練物のニセ象牙ではなく)高級な,本物の象牙が使われてます。 今回は山口(トップナット)と第1~第5フレットまでは再製作ですが,第6フレット以降にはオリジナルのものを残そうと思います。 いちばん長い第6フレットの端が,ちょっとネズちゅーにカジカジされちゃってますが,本当の古物ですからね,これもまた悪くはないかと。 胴材がトラ杢とかいう部分をはずせば,16号の構造や各部の寸法,それ自体は,明治の清楽月琴として「定番通り」と言っていい,無難なものになっています。山口はオリジナルがないので元の高さが不明です。古物の月琴では失われていることの多い部品ですが,いままでの修理では最大高13ミリ,最小高8.5ミリ,平均的には半月より2ミリほど高いのが定番であるようです。 そこで,残っていた第2フレットの高さとか,ウサ琴での製作経験やらから推測して,16号の山口はだいたい11ミリ程度であったかと考えます。 ![]() それで一度組んでみたのですが----指板上のフレットの高さはだいたいいいものの,高音域のフレット頭から糸までの間隔が少しありすぎて,そのあたり,音がぜんぜん伸びません。 これでもまあ,中級実用月琴としてはあくまで「定番」的な絃高,よくあるフレット高ではあるのですが……。 何度も書いているように,清楽月琴ではもともと,この高音域の音は滅多に使われないため,第5フレット以降をきちんと加工・調整していないことがよくあります----いままでにも第7と第8の高さが逆になってたり,12号のように最高音3本が,ほぼ同じ高さだったりということもありました。 そうしたのと比べれば,16号のものはわずかにしてもきちんと高さが変えてある(高音側ほど低くなっている)ぶんエラいですが,どっちにしてもこのままだと多少弾きづらいので,少々手を入れさせてもらいます。 ![]() と言っても,やることはいつも通りですね----まずは半月にゲタ。 もともと低かったのですが,これによって絃高は半月のところで面板から7ミリと,さらに2ミリほど下げ,おまけに山口を1ミリ削って高さを10ミリとしました。これによって当初は面板の水平面に対してほぼ平行だった絃を,半月のがわにわずかに傾斜させることに成功しました。 ちょっと大胆に山口を削ったわりには,指板上のフレットの削りなおしも大してありませんでしたねえ。 絃が半月がわに向かって傾斜しているので,高音がわの3本(第6・7・8)と糸までの間隔も1ミリ程度におさまり,この音域での運指に対する反応も音の伸びも,かなり改善されたかと思われます。 フレットと蓮頭を本貼りし,お飾りや絃停を戻したら---- 2010年11月,清楽月琴16号「於兎良」, 修理完了です!! ![]() 16号「於兎良」,軽やかなきれいな音です。 10号菊芳に比べると,音の深みやら何と言いますか…「芯」みたいなあたりが少し足りないように感じるものの,このクラスの月琴としてはじゅうぶんにいい音だと思います。 某知り合いのツテにより,楽器内部から出てきたゴミを年代測定していただいたところ,この楽器の製作年代が明治19~22年ごろという結果が出たそうです。 作者である福嶋芳之助さんが「三絃・二絃琴」で褒状をもらった「第三回内国勧業博覧会」の開催が明治23年ですから,16号を作ったちょうどこのころ,職人としてまさに「売り出し中!」てとこだったかもしれませんね。 おまけ 国産清楽月琴の「日本化」について(1) ![]() ![]() ![]() ![]() さて,画像は上二枚が「14号玉華斎」今回の「16号於兎良」,下段が同じ福嶋芳之助作の「10号菊芳」と,国産清楽月琴の極端なものとして「11号柏葉堂」です。 ここからちょっと,清楽月琴の時代による糸倉の形状の変遷について考えてみるとしましょう。 まあ,製作事情により作家さんの趣味嗜好により異なることも往々にしてあるとは思いますので,あくまで「傾向」程度のものですが----。 月琴流行初期の幕末~明治初期にかけてのもの,たとえば「唐渡り」「古渡り」とされる,清国からの輸入月琴や,それを写したいわゆる「倣製月琴」の糸倉は,アールがきつく,側面から見ると幅広。うなじは「絶壁」,長く,平らで糸倉と棹部との区切りが比較的はっきりとしています。軸は溝の深く入った六角丸軸が多いようですね。 日本で作られるようになって,まず変わってきた部分がこの「うなじ」です。しだいに棹との間が短く,なだらかになってきて,明治30年代に近くなると,ほんとう女性の「うなじ」のように,色っぽく,ふっくらとした曲面を描くようになります。 このへんは何か民族的なカタチの嗜好みたいなものですかね? こうした変化をふまえて見ますと,16号の「うなじ」は,ほぼ平らではありますが,棹との区切りははっきりとしておりません。糸倉と棹の間は,浅いものの曲面でむすばれています。これが10号になると,「うなじ」はよりなめらかになり,弦池(糸を巻き取る糸倉の中心の彫りぬき)の端から棹までの間隔も,ずいぶんと短くなっています。 最初に「うなじ」のある国産の月琴に慣れていると,古式月琴の「絶壁」に多少違和感を感じることはありますが,実際の演奏の上ではたいした違いや支障はありません。 しかし,楽器を作るほうのがわから言いますと,この小さな「うなじ」の部分は,ちょっとでも変えるとそれが自然棹全体のフォルムに影響する,けっこう重要なポイントになっているのであります。 実際に楽器を作ってみないと分からないかもしれませんが,おそらくは国産の清楽月琴で,山口のところに「ふくら」ができるようなったのも,正面から見て真っ直ぐだった棹の左右にテーバーがつき,鶴の首のように,わずかに上すぼみになっていったのも,また明治20年代後半以降の石田義雄の月琴や,柏葉堂の楽器のように,糸倉全体が長く,細く,唐渡りのものや古式のものにくらべスマートになっていったのも---- すなわち,のちの中国月琴と清楽月琴の形態上の変遷の違いは,この「うなじ」のデザインの違いからきているとまで考えますね。 軸は丸っこいものから,角ばった六角軸になっていきました。 16号のものは,これもまさに丸軸から六角軸になろうという,ちょうどその中間のカタチとなっています。 ![]() こちらの変化の原因は,前にも記事に書きましたが一つには深溝の丸軸の加工が意外と面倒くさいということ。もう一つには日本人にとってより手に親しい,三味線の軸の形状に自然と近づいていったということだと考えています。 地域により楽器屋さんにもよりますが,軸・糸巻きは別に専門の職人さんが作っていることもあるので,ふだんより多く作っているものと同じようなカタチにしたほうが,工具や工程のうえにも利があったでしょうしね。 製作年代の分かっている「鶴寿堂」などから考えて,明治20年代の後半には,こうしたデザインの変化が,職人さんたちの間でほぼ一般的に浸透していたと考えます。先にも触れた石田不識や柏葉堂の楽器などからは,さらに先を行く,「国産月琴」の楽器としての 「変化の兆し」 が見てはとれるのですが---- 月琴と云う楽器の,流行の寿命のほうが,ほどなく尽きてしまったのですね。 明治17年に政府機関の一つ「音楽取調所」から出された『音楽取調成績申報書』には「月琴の改良について」という一節があり,西洋音階にかえるほか「其絃数ニ一絃ヲ加ヘ,棹長ヲ縮シ,胴面ノ板地ヲ改メタル等,種々ノ改正ヲ」加えた旨が書かれていますが,中国現代月琴とは違い,そういう「改良」された楽器が普及した形跡はありません。『大清楽譜』(山下松琴)という楽譜には,明治18年に発案されたという「雲琴」なる8弦楽器の図が見えます。また昭和になってからだったと思いますが,「大正琴」の発明者・森田吾郎が「ムーンライト」という4弦楽器を出しています---多才の明治人・森田吾郎はまた,月琴演奏家でもありました。 清楽月琴の国産楽器としての変化はわずかで,波及した影響もこの程度しか見てとれませんが,逆に言うと,その少ない変化を確実によりわけてゆくことで,この楽器の本当のオリジン,歴史へと到達するための手がかりが得られるかもしれませんね。 16月琴於兎良・音源 1.開放弦(40kb) 2.音階(1)(42kb) 3.音階(2)(59kb) 低音弦/高音弦それぞれ 4.算命曲(118kb) 5.九連環(153kb) (おしまい)
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