13号柚多田(7)
2011.1~ 月琴13号・柚多田 (7)
STEP6 永い永い空の下 さてさて,一年近く放置したあげく,江戸時代の楽器だと分かってどびっくり!の展開となった13号の修理ですが,いよいよ仕上げです。 フレットに使っている竹材は,もともとただの晒し竹なので,そのままだと白っぽく安っぽくて,古い楽器にへっつけるには適しません。 そこでまずはこれを,一晩ほどヤシャ液に漬け込み,黄色く染めます。 一度引き揚げて乾燥させ,亜麻仁油で拭き磨き----いつもの竹フレットならここまで。こうして染めたフレットは,一見高価なツゲ材と見まがうような黄金色になりますが,今回はさらにもう一手間。油拭きから二三日,表面の油が乾いたところで,柿渋を塗ります。 前にも書いたと思いますが,この柿渋とヤシャ液という染料は,どうも相性が悪いらしく。そのまま合わせたり,上から重ね塗るとヤシャ液の黄金色が褪せて,なんだか白っぽくなってしまいます。 最近の実験により,上に一度,油を引いてから柿渋をかけると,ヤシャ液で下地を染めた場合でも,この褪色はあまり起こらないことが分かりました。どうやらそうすると,柿渋はヤシャ液と反応する前に,油のほうと反応してしまうようなのですね。 むかしの時代劇などで,貧乏なおサムライさんが傘を作ってたりしますね。あの番傘にはられている紙には,柿渋と桐油が交互に何回も塗られています。柿渋と油が反応してできる層は,かなり強くて丈夫,耐水耐湿性もありますし,年月が経つと柿渋が変色して黒ずみ,けっこういー感じの古色となってくれるはずです。 13号にはお飾りの類がありませんので,フレットを貼り付ければ,修理完了……とその前に。 よく見たら,半月の前部分がわずかに浮いていましたので,付け直しておきましょう。 表面板,かなりイジメましたからねえ。むしろよくいままでくっついてたものだ。 さて,これでほんとに修理完了です! さっそく音を聞いてみましょう。 ……う~む…べつだん悪い音,でわないんですが。 なんか思ったより「ふつうの音」ですねえ。 「江戸時代の月琴」という期待が多少大きすぎたのかもしれません。 ……いや,考えますと,この材質,あの構造でこれだけ鳴るのは,むしろスゴいのかも。 厚みのある糸倉や太めの棹,細すぎる糸巻き,段差のある半月など,13号の各所の寸法やデザインはかなり独自なもので,古いものでありながら,天華斎や琴華斎のように「唐渡り」の楽器を単純に模倣したものではありません。またこの楽器の各所の加工や接合の工作には,妙に精緻なところと異常に稚拙なところが,チグハグなかたちで同居しています。(これつまり内部の署名「石村近江大掾藤原義治」&「常吉」さんという二人の職工が共同で作ったという証左なのでしょうか?) 上に述べたように,この13号には「清楽月琴」という楽器の定型や定番からハズれたところが多く見られます。 明治以降に作られた楽器にもないではないことなのですが,ほんらい三味線や琵琶が専門の職人さんが作った場合,初期の作品に本職の楽器の影響が強く出たりします。 13号の場合は三味線。 糸巻きの先端の寸法,またその軸穴のあけかたもそうですが,胴側板の内壁を,回し挽き鋸ではなく鑿ではつって刳っているのも,三味線の胴体の加工に近い。 柔らかすぎる響き線やそれを囲む竹の構造,ぶ厚すぎる側板や中途半端にあけられた内桁の音孔----そうした特徴はかなり「独自」ではありますが,月琴の流行は化政期から続いていましたし,彼らが月琴という楽器を「まったく見ずに」作った,とは思われません。しかし,定番・定型からはずれているところから見ても,多少統一感のない各部の加工から見ても,それほど「通暁していた」段階で作られたものとも思われません。そのためある意味,いまだ「 "月琴" になりきっていない!」ところがある楽器なのですね。 それでもいちおう「月琴の音」がし,操作上も違和感があまりなく,楽器として成立しているのは,まさに職工の「ウデ」によるところが大きい。 三味線の始祖流「石村」の名と,「近江大掾」はダテじゃない,ってとこでしょうか。 思いのほか(まだ言ってる)大きく,明るい音がします。 絃高はかなり下げたものの,フレットはいまだ高く,弦はふつうの月琴よりも多少押し込まないとなりません。 しかし,操作性はそれほど悪くない。ふつうの月琴より半月のサイズは大き目ながら,高低・内外の弦間はそれほど広くはなく,ピッキング上の問題はありません。また,素材は軽めですが,厚みがあるため安定は良いほうです。 表面板中央付近に,ピックによるかなりの数の擦痕が見られますので,通常よりやや楽器を横倒しにして弾いていたか,右ヒジで押えつけて立ち弾きで演奏されていたのかもしれません。これだけの修理をして「思ったより鳴る」楽器であるもう一つの理由は,これがお飾りではなく「ちゃんと弾きこまれていた」月琴だったからかも,という点もあるのかもしれませんね。 この楽器の調査はまた,国産月琴の成立に関わるいくつかのギモンも残してゆきました。 ひとつには,完全な国産化がいつごろから行われていたのか,という時期的な問題。 上にも述べたように,この時期の職工がいまだ月琴という楽器の製作に慣れていない,定番や定型が知られていない,とすると,そうした共通知識や技能が広まったのは何時ごろなのか(それともこの楽器が特別だったのか?)----このあたりは,もっと古い楽器や同時期の楽器を調査できないと分かりませんが。 つぎに棹背の「うなじ」のカタチです----従来,庵主は日本における月琴の伝来とその変化について, 「古渡り(完全輸入)」>「唐渡り模倣」>「国産」 という図式を画し,その外見上の代表的な変化の一つとして,この「うなじ」の形状を掲げていました。 つまり,輸入された月琴の「うなじ」は「絶壁」だったのが,国産化されてなだらかになった,と言っていたのですが,13号の「うなじ」は---多少武骨ではあるものの----明治になってから作られた楽器とデザイン的にはほとんど変わりません。 つまり,いままで後になってからそうなったんだろう,と思ってたカタチが,はるか昔,江戸時代にはすでにあったというわけで。数字的に「古渡り」「唐渡り」とされる楽器に「絶壁うなじ」が多い,というところは変わりませんが,この形状の変化は,清楽月琴が完全に国産化されるようになってから生じたという点は瓦解してしまいました。 あらためて考えてみますれば,現在の中国月琴のうなじも,アールはゆるいもののなだらかなものが多く,馬琴の随筆(『耽奇漫録』)に見える木の葉形の半月を持った月琴の棹背も(絵はヒドいですが)あまり角ばって見えません。海外の楽器博物館のサイトで,13号と同じ19世紀に中国で作られたとする月琴で,同じようになだらかなうなじを持っているらしいものもあり,「古渡り」の段階で,中国から同様のタイプの「月琴」も輸入されていたというところは間違いなさそうです。 江戸時代から「名器」とされ,数多く摸作された「天華斎」など福州系の楽器が「絶壁うなじ」であったために,初期の楽器ではこのタイプが多く,のち国内で広く製造されるようになってから,日本人好みな「なだらかうなじ」のタイプが多く作られるようになった----という図式が,修正案としてはもっとも都合が良いのですが,ハテサテ。 (おわり)
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