月琴の起源について その5
![]() STEP4 日本化した明笛 その後も明笛の調査は進んでおります。 買い入れた笛は27号までまいりました。本職の笛吹きさんごめんなさい。 笛はタダでやるから,吹くの手伝え。 ![]() ![]() 先ごろ,昭和21年に出された『標準 明笛独習』(東京 全音楽譜出版社)という本を入手いたしました。 戦後ですよね。スゲえ。 戦前までには,ほとんどの清楽器が途絶しておりました。そのなかでこれですから,やっぱりいちばん息の長い清楽器だったわけですね。 この教本の絵にある笛は,それ以前からの明笛教本に載ってるそれと変わりませんが,写真にあるものは管尻や頭の飾りから見て,大正時代以降のデザインだと思われます。 ![]() 明笛は元来中国の笛で,清楽の流行とともにおもとして都市部で作られ,販売されましたが,それが国内に広まるなかで,各地方の音楽や祭礼の中にとりこまれ,独自化したものがあります。 東京近郊の福生や唐津の浜崎などには,この,響き孔に紙を貼って共鳴させるタイプの笛が残っております。 笛屋さんのなかには,それらは清楽の明笛とは関係なく,それ以前に入ってきた古代の中国笛を伝承したものだ。と言うかたもおりますが,竹紙を貼るタイプの笛の歴史は,中国でもそんなに古代まではさかのぼれませんし,それぞれの祭礼に関する日本がわの文献・記録から考えても,よくって江戸時代----まあ幕末から明治,清楽の大流行時に「流行りの笛」をとりいれた,と考えたほうが,多少ロマンはありませんが,現実的ではないかと考えます。 ![]() 現在も残るそうした祭礼の明笛には,紫水さんなど今も明笛を製造しているメーカーさんの既製品や,笛の製作家などに依頼して作ってもらった古い笛の復元品などを使用しているところも多いのですが,九州などでは,祭礼の参加者が自分で作ることになっているところが複数箇所あるようです。 たとえば上にも書いた,佐賀県は唐津の,浜崎祇園山笠で使われる「竹紙笛」などもそれですね。 今回入手した27号の出品元は熊本県。 唐津浜崎のものが流れてきたのか,あるいはこのあたりにも,似たような笛を作る伝統があったのか,寡聞にして定かではありませんが,天然のままの竹の節のところを利用して,うまく本家明笛の管頭,管尻の飾りに擬しているところ,管尻表の「露切り孔(と一部ではいう)」が一つだけなところなど,特徴は共通していますね。 ![]() ![]() すでに紹介したことのある22号もまた,日本の祭礼で使われた独自の明笛の一つだと思われます。 記事で書いたとおり,響き孔と露切り,飾り紐の孔が余分にあるだけで,姿はほとんど篠笛です。 管頭の処理の仕方も管尻の丸め方も,明笛ではなく篠笛のやり方ですね。 国産の明笛,とくに明治末以降に作られたものにも同じ傾向がありますが,古いタイプのもの,また現在中国の笛子などと比較すると,こうした祭礼笛には,加工上にも篠笛との融合が顕著に見られます。 ![]() まず歌口が広いこと。明笛の歌口は,この手の笛の中ではかなり小さめです。 指孔の大きさと形もこれに準じています。 明笛の指孔は,篠笛のものよりやや小さく,細長い楕円状なのですが,これらの笛ではほぼまン丸くあけられていますね。 あと,皮付き竹が用いられていることもあげられます。 中国の笛子もそうですが,明笛はだいたい皮をむいて軽く塗装していることが多いのです。 皮付き竹が好まれる傾向に関しては,篠笛からの影響なのか,日本人の嗜好が関与しているのか,それともなにか加工・保存の上で,この国では利便があるのか,あるいはただ単にメンドウくさかったからなのか,いまひとつ決めかねておりますが,少なくとも音色の上では,皮ナシのほうが音がやわらかく,皮付きの方がやや甲音がキツく響く傾向が出るようですね。 ![]() 27号は現在調査中。 というか,音階などのデータ録りもこれからですが。 もともとあまり吹かれたものではないらしく,内側の塗りはガサガサしてたし,管内塗装後の歌口の調整もちゃんと済んではいない様子----使われないで放棄された失敗作だったか?とも思いましたが,管内をShinexに油つけて磨き,歌口のへりを少し均したところ,少しづつ音が出るようになってきました。 当初,響き孔の周囲が,少し茶色っぽくなっているのは,竹紙を貼ったニカワの痕かな?と考えてましたがさにあらず,これ,竹紙を貼ったり剥がしたりしやすいように,響き孔の周りを透きウルシ的塗料で塗装しているんですね。以前,ネオクに出た古い明笛で,同じ目的でここに象牙や角材をうめこんでる笛がありましたが,あれよりも簡単で実用的ですな。 (つづく)
|
![]() STEP1 山形屋雄蔵について ![]() さて暑い夏もようやく終わり,内地に帰ってきて半月ばかりが過ぎました。 2ヶ月も留守にしていますと,生活の再起動もいろいろとタイヘンですが。 そろそろまたゾロ,はじめるといたしましょう。 夏前に買い込んだ資料楽器のうち,26号菊芳の3面目はお嫁にゆき,27号石田不識こと佳菜ちゃんはギリギリ間に合って,さっそく2ヶ月間,ライブにイベントにと酷使されておりました。 未修理の楽器はまだ3面----虎縞の25号,やたらと重量級の28号,そしてこの29号です。 百年近く待ったのですから,修理の順番が一年や二年違っても構いますまい。 順不同でまいります。(笑) 【月琴29号:採寸】 ![]() 全長:648(含蓮頭) 棹長:290(除蓮頭)胴体・縦:345,横:344,厚:35(うち表裏板厚:4.5) 推定される有効弦長:418 ![]() この楽器の作者は,薬研堀の「山形屋雄蔵」。 昨年,同じ作者の楽器を一面修理いたしました。 20号ですね。(こちらを御覧ください → ) これと同様,細っそりとした姿の良い楽器で,音も素晴らしくきれいでした。 材質から見て中級の楽器なのですが工作は緻密。 前修理者がいろいろとやらかしてはいましたが,原作者のその丁寧な仕事が,楽器の生命を守ってくれていたようなもので。庵主の仕事は基本的に「原作どおり組み立てる」というだけで済みました。 明治20年2月発行の『商人独案内』という本に,まず 「石村勇蔵」 という三絃商が出てきます。その翌月に出された『東京府工芸品共進会出品目録』には 「石村勇造」 という名が見えます。 琴を6面,二弦琴と須磨琴を2面づつ,三味線を5本,月琴を4面出品してますね。 ![]() ![]() この「石村勇蔵」もしくは「石村勇造」と,「山形屋雄蔵」が同じ人物なんじゃないかという考えはずいぶん前から持っていました。 「山形屋雄蔵」の名前が見られるのは,既知の資料中では明治27年9月に出された『掌裡の友』が最初ですが,そこでは屋号が「○に石」となっております----つまりここから,彼は三味線の名流「石村」の系列の製作者であると推測されるわけですね----ついで明治31年の『日本商工営業録』では「山形屋 石村雄蔵」と……字は違いますが,名前の読みは同じだし,同時期に薬研堀にはほかにも何人か楽器職が住んでいましたがそれほど多くはなく,しかも清楽器に係わったと分かっているのは,こいつらくらいです。 ![]() ![]() ![]() それまでは特に苗字帯刀を許されたようなもの以外は,時代劇で良く聞くように「讃岐の又兵衛」とか「神楽坂の松五郎」,と出身地や住所をつけた通称とか,職人なら「下駄屋の為五郎(通称・下駄為)」とか「秋田屋の金造」といったように,職業や店の名前をくっつけて通称で呼ぶのがまあ一般的で,ちゃんと苗字を持ってるものでも,公的な書類などでもなければ使うことは少なかったようです。 「石村」の宗家は八丁堀の「石村近江」ですが,そのほかにも芝の「石村山城」,麻布材木町の「石村巳之助(鑠斎)」など,この名を名乗る,または店の名前とする暖簾分けや傍流の楽器製作者は,江戸にも大坂にもたくさんおりました。 13号の作者,西久保の「石村」は楽器に「藤原義治」「石村近江掾」と署名をしています。こうした名前はどれも,宗家や京都のお公家さんとかから許可をもらった(まあだいたいは買った)「名乗り」や「官位」で,現在言うところの一般的な「名前」や先祖伝来の「苗字」とは,ちょっと違うものなのですね。 大坂の心斎橋の「石村儀兵衛」さんは店の名前が「笹屋」,浅草区田原町にも「山形屋」という店の名で「石村茂吉」さんが住んでいました。神田鍛冶町の「海保吉三郎」は屋号をつけて「菊屋吉三郎」と名乗ることもありました。「菊屋」というお店は多いので,お店は地名をつけて「鍛冶町海保」とも「鍛冶町菊屋」とも書かれることがあります。 時代が時代ですから,字は違っていても「山形屋雄蔵」が「石村勇蔵」と同一人物だったとしても,大したことではありません----まあ,いまのところまだ,完全にそうだ,とは言えませんが。 「山形屋雄蔵」のほうの住所は「薬研堀四七」,これは楽器のラベルにも書いてあります。「石村勇蔵」のほうは「薬研堀四一」,わずかに違ってますが,この当時はちょくちょく住所が改定されているので,同じ区画であってもおかしくはありません。もしくはちょっとだけ近所に引っ越して店を新たにした際に,名前もちょっとだけ変えたのかもせんですね。 ちなみに,この夏,月琴でやらかした演奏の一つ。 ラジオカロス「えっちゃんの幸せの種を蒔こう!」より, ヨミガタリストのまっつさんとやった「やまたのおろち」の一幕をどうぞ。 (つづく)
|