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明笛について(20) 39,40号

MIN_20.txt
斗酒庵 明笛を調べる の巻明笛について(20) 明笛39,40号 

  38号は修理すれども音出ず。(泣)

  次の2本は,いっしょに出品されてました。
  お尻の飾りのないのを39号。
  頭の飾りのないのを40号とします。

  寸法からして,いづれも大正期の明笛と思われますが,孔のカタチや管の状態などから総合的にみて,40号のほうがやや古いタイプの笛のようです。

  39号の頭飾りは水牛角製。


  なんか,あちこちに細かいエグレ……あら,穴ァあいてるとこまでありますね。
  スプーン状の削れ痕,これぜんぶ,ネズミがカジったとこです。
  いやでも,食べられてすっぽりなくなってた例もあるんで,これならまだよく残ってるほうかと。(w)

  まんなかの白い象牙のリングのところで,二つに分解できるようになっています。ラッパになってる先端がわは,内もきれいに刳ってありましたので,おそらくここは笛膜入れになっているのでしょう。
  飾りのすぐ下にラベルがあって,上段に 「TANIGUCHI&CO.」 真ん中にヒシにS.Tの商標,下段に 「OSAKA,JAPAN」 とありますね----ここから,この笛の製造元は 「谷口昇店」 であろうと思われます。


  この製造元の,拙楽器商リストにおける現在までの初出は,明治37年の『第五回内国勧業博覧会大阪府事務報告』。「谷口昇治郎」 という人が,手風琴を出品しています。このほか国会図書館のアーカイブで探すと,大正4年の 『明笛教本』(ノボル楽友会)と 『箏曲ゆき-古泉流合奏用明笛音譜』(同前) という譜本が出てきました。いづれも発行元は 「谷口昇店」。 また巻末広告には,この笛にあるのとおなじ 「ヒシにS.T」 の商標が見えます。こちらの奥付では,店主の名前の表記が 「谷口昇次郎」 になってますが,住所が同じで管系の楽器を扱ってるんだからこの二名,同一人物(おそらく後者の表記が正しい)と考えて,ほぼ間違いないと思われます。
  商標 「S.T」 の由来は,店主の名前 Shoujirou Taniguchi だと思われるのですが,主催する音楽クラブが 「ノボル楽友会」 なので,お店の名前の読みは 「たにぐちしょうてん」 ではなく,「たにぐちのぼるみせ」 なんじゃないか(w)とも考えてしまい,少し悩みのタネとなっております(w)。 奥付の記載から推してこの 「ノボル楽友会」 というのは和倉古泉という人が代表ではじめた,谷口昇店主催の音楽クラブのようです。「谷口昇店」の「昇」にあやかり,笛のウデマエぐんぐんあがるぞ!-----みたいなもの。するとやっぱり店名は 「たにぐちしょうてん」 でいいンじゃないかな。(ww)

  ただし『大阪商工名録』(大11)では,住所が同じで店主の名前が 「谷口昇」 になっています。このあたりになると,これが同一人物なのか(昇の後を書き損じたとか),あるいは店の名前にちなんだ血族が継いだとかなのか,ちょっとあやしくなってきますね。

  うちで扱うのは確かハジメテだったと思いますが,このラベルの貼られた明笛は,古物ではよく見かけるものなので,当時としてはけっこうな大手の笛メーカーだったのだと思いますよ。

  管の保存状態は比較的良く,歌口にも内塗りにもほとんどイタミがないので,笛としてはこのままでもじゅうぶん使用可能なくらいですが,上の画像にもあるように,頭飾りがネズミに齧られまくって穴があいてるのと,お尻飾りがなくなってます。

  んでは修理。

  まずは頭飾りの穴を埋めましょう。

  アクリル絵の具でそれっぽい色を作り,これをエポキに混ぜて,エグレやら穴ポコに充填。硬化後に整形して磨くと----うむ,透明のままでも良かったかな(汗)。 じっくり見れば多少は気になりますが,まあ補修痕ですから,あるていど分かってしまうほうが後世のためはにいいかもしれません。

  お尻飾りのほうは,例によってブナのパイプを削りましす。
  いつもだと白く塗るところですが,今回は頭飾りに合わせて黒塗り。

  中国の笛子ではいまもこうしたお飾りは,頭のもお尻のも,ほとんど管本体と同じくらいの径のパイプ状のものがついてるくらい,古式の国産明笛でもこの部分はそんなに広がってませんが,明治末から大正期になってくると,ここがより装飾的になって,頭飾りはこのように,いかにもというような 「ラッパ状」 になり,その根元の部分にもハタ坊のオデンとか五輪の塔みたいな凸凹のデザインがつき,やや派手なものが多くなってきます。
  ただ,こうしてデザインを派手にすると,そのぶん大きく重くなるので,ただの筒状のものにくらべ,取付けの安定が悪くなってきます。もともと数ミリしかない竹肉の,それも丈夫な表層の部分を削って,少し柔らかい竹肉の部分にさしこんでいるのですから,強度上の心配も出てくるんですね。ただでさえ,よくはずれてなくなっちゃってることの多い部品ですが,これがさらになくなりやすくなるというあたり。

  しかしながら----ふむなるほど。 こうやってお飾りの接合部の際に凸を作った場合,接合面が少し大きくなってお飾りが安定しますし,管につける段差の削りも薄くて済む。その上,このラッパ部分の根元は管の太さにあまり影響されないので,より末広がりにデザインできるんですね----これはおぼえておこう。

  管のほうは外がわをきれいにぬぐい,あとは内壁,歌口から響き孔の底あたりに少しイタミがありましたので,そこを中心に管内を軽く保護塗り----うむ,比較的ラクに終わりました。
  音は典型的な大正期のドレミ明笛ですね。

 口 ●●●●●● 合/六 B-C
 口 ●●●●●○ 四/五 C#+45
 口 ●●●●○○  Eb+20
 口 ●●●○●○  F-10
 口 ●●○○●○  G-25
 口 ●○○○●○  A-10
 口 ○●●○●○  B
 (口は歌口,●閉鎖,○開放)

  庵主のウデでは(そういえば笛の場合は何と言うのだろう?),全閉鎖と一指あけが多少安定しませんでした。歌口と響き孔のあたりを少し塗りなおした影響だったかもしれません。後で吹いてくれた方の話だと,●●●●●● でC,●●●●●○ でDがだいたいちゃんと出るよ~とのこと,それでも2・3音目は少しだけ低くなるようです。
  呂音での最高は ○○●●●● で出た6C-10ですが,かなり不安定。

  この笛の修理と試奏を通じて分かったことがもう一つ。

  うちにある明笛だと,「上=ド」 としたとき,西洋音階に近いドレミを吹こうと思うと,「ファ」が ●○○ ○●○ (ミの運指)の6孔(左端)半あけになります。

  この半音を出す「半あけ」は丸い孔のほうがやりやすい。

  「半あけ」とはいうものの,べつだん指孔をきっちり半分あければ半音になるかと言えばそういうわけでもなく(庵主は当初,本気でそう信じてましたw)。 実際には図左のように,わずかにスキマをあけるくらいです。
  古いタイプの明笛は,歌口も指孔も棗核型。さらに丸穴タイプのものに比べるとかなり小さめです。 慣れてしまえば出来ないことではありませんが,丸孔に近いもののほうが間違いなくやりやすいのですね。逆に考えますと----

  ・棗核型の笛は基本,半音の技法をあまり使わない笛。

  ・丸孔型の笛は半音の音階もふつうに使う笛。

  ----ということが言えるのじゃないかと。
  実際,日本の清楽の楽譜には,半音を示す記号はありませんし(中国の工尺譜では 「上/下」 等の付号で表すことがある),基本的には長音だけで,中間的な推移音なども用いられませんから,必要ないわけですね。

  そこからさらに論理を延長して行きますと。

  指孔が丸に近い明笛は 「半音の必要な音楽」 をやるために改造と言うか進化したものだ,とも言えるわけですね。

  この変遷がいつごろからはじまり,最終的にはどうなったのか。
  もうすこしで分かりそうな気がします。





  さて,39号よりは多少サビれて見えたものの,40号も外見的にはさほどキタなくもなく。
  管のあちこちに小さな虫食い穴がちらちらと見えはしますが,持った感じ,まあ大丈夫だろうというくらい。

  内がわに少しホコリがついてましたので,とりあえずこれをキレイにしてやろうと露切りを通しましたところ……あれ?……なんかバサっと落ちてきたよ…内がわの塗りが。
  管尻を下にして,コンコンと軽く作業台にうちつけましたところ………モサっと落ちてきましたよ……粉が。

  ……うっぎゃああああっ!

  虫に食われてました----ちょうど内塗りの薄い塗膜の下,竹のやわらかい肉のあたりが,そりゃもう縦横無尽に食われまくってます!!


  食害部分を除いて内部を均すため,丸材に紙ヤスリをつけた即席のガリ棒で内部を削ったところ,まあ出るわ出るわ,笛がなくなるんじゃないかと思うくらいの量の竹の粉が。
  棒引き抜くたびに舞い散るホコリ----さすがに家の中では出来ないので,ベランダとか公園で作業してました。

  古物の竹笛を修理した人の記事で,同じように虫に食われた笛があって,握ったらクシャっと潰れた,なんていうのを読んだことがあります……今回,こりゃさすがにダメかなあ,とも思ったんですが,虫が食いまくったのは見事に塗膜の下の一定の領域のみ,食われ方がだいたい平均していたのと,小さな侵入孔は無数にあいてるものの,外がわのカタい部分にはほとんど被害がありません。

  ふむ……もしかしたら,あんがい,直るかもしれませんね(w)。
  とにかくダメもと。これもチャレンジと思ってやってみましょう!


  この笛には二つ問題がありました。


  ひとつはこの虫害ですが,もうひとつは歌口の工作不良です。

  もともとあいてた位置が,管の中心線から若干ズレてしまっていたようです。
  ちょっと大げさに描くと図のような感じですね----これによって,笛を鳴らすのに大切な,歌口前後(クチビルを当てるほうとその向かいがわ)周縁部の角がうまく合わなくなっており,いまいち良く鳴ってくれないんです。
  オリジナルでは手前(くちびるがわ)の縁が,図よりもう少し斜めで,内がわの角がほとんどなくなっちゃってました。

  歌口が駄目な笛は,基本ゴミにしかなりませんが,大正期のものであろうとはいえ貴重な資料です。なんとか直して吹いてみたいもの。

  基本的には,孔をいちど埋めて,正しい位置と角度であけなおせばいいわけなんですが,まあこの手の笛では,あまりやる人はいないようですね。
  今回の修理には,こんな材料を使います----

  粉……粉ですね。
  ちょっと固まりもありますが,かなり微細な粉です。
  いえ,ある意味 「ヤバい」 かもしれませんが,ヤバい成分はたぶん含まれてません。(w)
  質感的に砥粉に似てますが,砥粉ではありません。

  これはなにかと言いますと----竹の粉なんですね。
  以前,修理の材料として煤竹の端材を何本か買ったことがあったんですが,その一本が虫にやられてまして,一部が内外の皮一枚を残してすっかり食われてしまっていました----そこから出てきたのがけっこうな量のカタマリ。 触った感じはカタかったんですが,指先でつぶすとモロモロと砕け,たちまち細かな粒子になりました。

  通常こうした修理には,同材かなるべく近い材料を用いるのが良いとされています。

  しかし竹の場合,繊維が丈夫過ぎて,直線状,繊維に沿った形での単純な埋め込みなどの場合は良いのですが,複雑なもの細かい作業の補修材としては不向きです。しかも同じ理由で,そのまま粉砕してもボサボサとした細かな繊維状になるだけ,充填補修の骨材などとしても使いにくい。
  一方----これは虫の体内を通過してますが,もとは紛うことなく竹だったもの。
  しかも紙ヤスリなどで擦って作った竹の粉末などに比べはるかに微細で使いやすくなってます。 作業の前にいくつか実験してみましたが,ニカワやエポキと合わせてみた場合,やや硬くモロいものの,固化後の強度や切削感も,竹にかなり近いものとなりました。

  今回はこれをパテの骨材として使用しています。
  まずは歌口と虫食い穴は,この竹粉をエポキで練ったものでふさいでしまいます。
  虫食い穴は孔のところに盛ったあと,針の先などで一個一個中に押し込みます----けっこうな数,ありましたよ。
  歌口は一度ふさいだ後,硬化後に表裏を均し,本来あるべき中心の位置と角度で孔を開けなおしました。あとでぞんぶんに調整ができるよう,この時点ではすこし小さめの棗核型にしておきます。

  つぎに,おなじものをカシューで練って,管の内がわに残った虫食い痕を塗りこめます。削って均しはしましたが,こまかい溝があちこちにのこってしまっていますし,削ったことで管の内径が広がってしまってるわけですから,その補充も兼ねてるわけます。
  まあもっとも----「元通り」の内径にまで厚盛するわけにはいきませんが。

  エポキで練ったパテにくらべると硬化するまでの時間が長いのですが,まあこの時期,ほかにさしたる修理楽器もありませんでしたので,のんびりやってゆきました。
  尺八なんかでも似たようなことをするそうですが,この作業,けっこうタイヘンですね。
  管の内がわの,思うところにパテを落とし,それを均して広げる----管は細いですから,とうぜん見ながら,なんてことはムリ。棒にだいたいの寸法を刻んだりしながらあとは手先指先の感覚で……なんですが。パテを持ってゆきたいところの手前に落ちちゃったり行き過ぎたり。なかなか思うようにはいきません。

  途中,表面の均しをまじえながら,3~4回に分けてけっこうな量を盛り,二週間きっちり乾かし,虫食い痕がぜんぶ埋まったのを確認したところで磨き,カシューだけで内外に仕上げの上塗りを2度ほど。

  吹いてみました。
  音が,出ました!

  おおおぅ……あの虫食いだらけの不良品が…スカスカだったあのシロモノが。
  笛に,もどりましたよ。
  意外にいい音,しかも吹きやすいです。
  音のほうはおそらく,竹の柔らかい部分がほとんどなくなって,管の主要部分がほとんど硬い外皮層だけになっちゃってるからでしょうね。雅楽の笛などは,割り竹の外皮のがわを内がわに向けて筒にするそうですが,あれと同じような感じになってるのでしょう。

  歌口の再生もうまくいったようです。
  竹よりモロいだろうな,と思われたので,仕上げ塗りのとき,パテ盛り部分を中心に,少しカシューを多く重ね塗りしました。調律と調整で,少し削りましたが,通常の使用では強度的にも問題はないようです。
  埋めなおしたのが分かっちゃう感じなので,外面的には多少ヨロしくないかもしれませんが,音が出るのに越したことはないですし。

  内がわをかなり削ってしまっているので,この笛の実測音は,資料としてはあまり参考になりませんが----

 口 ●●●●●● 合/六 B
 口 ●●●●●○ 四/五 C#-10
 口 ●●●●○○  D-Eb
 口 ●●●○●○  E
 口 ●●○○●○  F#-5
 口 ●○○○●○  G#-5
 口 ○●●○●○  A-Bb
 (口は歌口,●閉鎖,○開放)

  計測すると多少波瀾な音階ですが,耳で聞くとけっこうまともなドレミになっています。全閉鎖Bだから古管に近い音階ですね。
  状態が状態だったので,製作当初の音階がどうだったのかは不明ですが,これはこれで偽似的に古管の明笛の代用品として使えるんじゃないでしょうか?
  すでに書いたとおり,音の響きは美しく,比較的吹きやすい笛ですんで,月琴の伴奏にはよさそうですね。

  こっちは頭飾りがブナパイプ。
  オボえたてのテクを使って,ラッパ広がりを強調したら,ちょっと細めになっちゃいましたが,まあこんなものでしょう。
  アクリルで色づけ,磨いてニスで保護塗りです。




  さて,37号の詰め物は後補だったのでスッポンと抜けて,詰まってた新聞紙から存在の上限,すなわちそのモノがいつごろには確実にあったのか,ということが分かりましたが,40号の詰め物はオリジナル。修理のため取り除かなきゃならなかったのですが,これがなかなかガンジョウで。かなりグリグリやっちまったため,ほぐしても大きなカタマリがあまりありません。

  なんとか使えそうなのはこのあたりくらいで…まあ正直,真ん中の一枚だけですかね。
  片がわに淋病の薬の広告。その裏に,たぶん雑誌の内容広告だと思うんですが……人名がいくつか見えます。
  「橋爪めぐみ」「白石實三」「井上康文」の名が読み取れました。
  「橋爪めぐみ」と「白石實三」は小説家,「井上康文」は詩人ですね。ともに大正時代,婦人雑誌の類によくのっていた人々のようです。
  この断片の内容にぴったり合うような雑誌記事目録には到りませんでしたが,『令女界』とか『婦人雑誌』とかで,この三人が同時に活躍していた時期を探すと,だいたい1923年前後のようです。
  おそらくはそのあたり,大正10年代のはじめのほうが,この2本の笛の作られた時代ではないかと考えられます----まあ虫に食われまくってた保存の悪さは置いといて,意外と新しかったですねえ。


(つづく)

明笛について(19) 明笛37号

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斗酒庵 明笛を調べる の巻明笛について(19) 明笛37号 

  今回の笛 37号は,頭飾りがない状態で,長さが50センチを越えています。
  明治~大正期の標準的な明笛だと,竹管の部分は40から45センチというところで,少しではありますが長いわけですね。

  しかも,頭部先端にはこのような加工痕……ここはもともと頭飾りを付けるのに,削って段にしてあるところですが,これはまあどう見てもオリジナルの工作ではありますまい。

  古式の明笛はふつう,この歌口から頭飾りまでの間が,明治期の標準的な明笛よりかなり長くなっています。おそらくは古式の明笛を,何らかの故障かあるいは改修のために切り詰めたものなのではないかと考えられます。
  最低でもあと2~3センチは長かったんじゃないかな?
  通常だと考えられない工作ですが,ぶつけて折れたとかヒビが入ったとか,あるいは管頭の詰め物がどうかなったんじゃないかと考えます。
  どれかと言われれば庵主,原因としては後者を推しますね。というのも----

  管頭の詰め物が替えられています。



  詰め物は,管尻のほうから棒ッこでつついたら,比較的かんたんにポロリと出てきちゃいました。
  出てきたのは新聞紙----国産の明笛の詰め物としてはふつうですが,通常はもっと硬く圧縮されてるものですし,反射壁になってた部分に塗料も着いていません。 つまりこの詰め物は,なんらかの原因で交換された後補のもの。それもキチンとした修理工作としてではなく,あくまで「仮」に,って感じでつめこまれたモノではなかったかと考えます。

  さて,以前この詰め物にされてた紙から笛の製作時期が分かったことがあるのですが,今回は,ちょうどまあ日付の部分が切れてて,ここから直接には分かりません。 また上に書いたように,今回のはオリジナルの材料ではなく,あとで誰かが詰め込んだものと想像されますが,まずこの新聞の年代が分からないと,この笛の存在の上限が分からないですからね。 なんとか読み解いていきましょか。

  手がかり1は左がわの紙。
  諸物価推移の表がありました。今も新聞に載ってますね「バナナ,190円。アジ,60円」ていう標準物価が並べてあるやつ。この記事内容から推してこの新聞は,「価」 が旧字体で 「日本橋区」 に魚河岸があった時代のものと思われます。 また,日本橋区の物価が載ってるのですから,これは東京版,いま東京の魚河岸は築地ですが,これが日本橋から移転したのは関東大震災の後。ということは,関東大震災の前,ということですな。



  手がかり2は中央のピース。「闘球盤」の広告----あ,これ 「昭和天皇が夢中になったまぼろしのゲーム」 って,ちょとまえに話題になったやつだ!----「カロム」 「クラキノール」 ってのだね。発売元は 「大一商会」 とあります。

  手がかり3,右端の紙は二つに折られていまして,開いたら 「『妊娠図解と安産法』〓村与野子(1字不明),河原林須賀子合著,有文堂」 という書籍広告が出てきました。 この本,国会図書館の検索では見つからなかったんですが,「成田山仏教図書館蔵書目録」に所蔵あり(w…なぜ?)それによれば発行は1915(大正4)年だそうです。

  ふむ…つまりこの楽器は,少なくとも大正4年には,壊れたか修理(?)された状態で存在していた,ということになるわけですね。


  明笛は清楽器の中でいちばん最後まで命脈を保った楽器で,大正時代に入ってもまだけっこうさかんに作られていました。そのころのデザインと思われる楽器を2~3のメーカーさんがいまだに作っています。
  これに対し,古いタイプの長い明笛が作られていたのは,明治の20~30年代までではなかったかと推測されます。

  もっとも清楽が一般的でなくなった後も,楽器屋さんに頼めば,古いカタチで作ってもらえたろうことは想像に難くありません。昭和10年の 『工業・手工・作業・実習用材料-木・竹編-』(小泉吉兵衛) の写真(右画像)にも,そういう古いタイプの明笛が写っております。

  当初明笛は,中国笛子そのままの南京笛タイプのものと,頭尻の飾りが大きく補強の糸巻きのない,のちに一般的となるタイプの2種類で,調子は全閉鎖Bb(間違ってもBあたり)一つしかなかったと思われますが,明治に入ってからは清楽で使っていたものに比べると短く音もやや高い,全閉鎖C,すなわちドレミに近い調子の新しいタイプのものが生まれ,主流となっていきました。
  長原春田が 『明笛和楽独習之栞』(明39) を出したころには,まだ旧来の音長の笛が多かったらしく,彼は運指と符号の関係を変更することで,西洋のものに近い音階で曲を記譜しており,明治24年に出された『明笛尺八独習』(音楽独習全書 津田峰子)も全閉鎖を 「凡」 とする (ふつうは「合」) 同様の運指法を採用しています。明笛の改造はおそらくこの前後あたりごろから始まったものではないかと,庵主は考えております。

  歌口・響孔・指孔以外の飾り孔がなかったりするものもありますし,孔の形状が篠笛に近づき,やや大きく,円形に近くなっていることもあります。また,管頭の飾りがデザイン的にやたら派手なモノになってることもあります。
  あとは「塗り」ですね。初期,とくに唐渡りのようなのものは管の内がわがほとんど塗られていません。中国笛子は現在でもそうで,この管内をウルシで塗りこめるってのは,日本産の笛である確立が高いのです。国産初期のものも内塗りは薄く,ほとんど塗膜になっていないことがあります。

  さて,そこであらためて37号を観察いたしますと。

  管がもっと長かったろう,ということはすでに述べましたが,歌口,指孔,飾り孔,いづれも小さく棗核型。内塗り加工はされてはいますが,ほとんど塗膜は見えず,どちらかといえば 「(保護のため)塗料をしませた」 とか 「色をつけた」 だけという感じがします。
  加工痕から考えて,江戸時代の作,って感じじゃありませんが,少なくとも明治初期の作じゃないかとは思いますよ。
  それが折れたか壊れたかしてほおってあったのを,何十年後かに子供か孫あたりが見つけて,それっぽく「直して」吹いてみたのかもしれません。

  修理はまず管頭に入れる詰め物を作るところから。

  ワインのコルク栓を削って和紙でくるんだのが,このところのお気に入りです。
  べつだんオリジナルと同じように新聞紙だったり,和紙の丸めたのをつめこむのでもいいのですが,内塗りの薄い笛の場合,紙だけだと反射壁になる部分の耐久性が多少心配ですし,いざ塗ってしまう場合でも,紙だけの場合より塗料を吸わないので手間も減るし経済的なのですね。

  次に,ここにお飾りをつけるため,前修理者がテキトウに削った管頭の先端を,きれいな段差に整形します。
  管頭のラッパ飾りは,いつものようにブナのパイプで作成。しかしながら----


  削りなおした部分が薄くなりすぎちゃって……ほかの作業やってるうちにポッキリ逝っちゃいました(^_^;)----急遽接合法を再検討----お飾りのほうに丸棒を挿して凸にする方法に変更しました。
  江戸時代の明笛で,同様にしていた例を見たことがあるので,まあよろしいかと。

  せっかくなので,ついでにちょっと悪戯を----
  自作の明笛で実験済み。太清堂から教わった,小型響き線を仕込みます。
  折れたか割れたかで短くなってる,とはいっても,いまだ唄口から先端まで10センチくらいの空間があります。内径も10ミリ以上あるので,仕込むにはじゅうぶんのスぺース。

  演奏音に大した影響はないんですが,吹いてると,自分に返ってくる音に独特の金属的余韻がかすかに聞こえて,なかなかにキモチがいいンですよ。(w)

  内塗りは保護程度に,カシューの透を軽く2度ばかり流しました。
  管頭の飾りは,管尻のオリジナル飾りに色合いを似せてアクリルで塗装,水性ニスで表面を保護塗りして仕上げます。遠めにはまあ,分かりますまい。

  2015年1月。
  明治の古式明笛の貴重な1本,明笛37号,修理完了です!

  修理直後の試奏で,全閉鎖4Bb,呂音の最高は ○●● ●●● で5Bb,どちらも最大で0から+30~40%の範囲。四が5C+37,乙=5D+10,上=5Eb+35,尺=5F+35,工=5G+30,凡=5A+20
  かなりそろっているうえ,テッペキの清楽音階ですた。

  今回は庵主自身のほか,長崎の竹原さんにも計測をお願いしました。
  何度も書いてますように庵主,吹く楽器とコスる楽器はニガテですからね,自分のだけだとイマイチ信用がナイ(w)。
  竹原さんによる実測は以下----

b-20b+20-40-10

  プラスマイナスの表示がない所は,標準的な運指(過去記事参照)でだいたいピッタリに音階を吹き出せたところ。うん,ちゃんと吹ける人が吹いても,「工」がちょっと低いくらいで,庵主の採ったデータともあまり酷い乖離はなかったぞ。よかったよかった(w)
  「上」は ●●● ○○○,「工」は ●○○ ○○○,「凡」は全開放 ○○○ ○○○ のほうがほぼピッタリになったそうです。

  上にも書きましたが,明笛は清楽々器の中でいちばん長く作られ続けた楽器なので,その数も多いのですが,古物でよく見かけるのは,明治末から大正・昭和にかけて作られた全閉鎖Cの新型のものがほとんどで,こういう古いタイプの楽器にはなかなかお目にかかれません。 庵主自身が扱ったことのあるのも,このシリーズの(11)で紹介した31号と(16)の36号,そしてこの37号でようやく3本めです。
  何度も書いているようにこの楽器は清楽の基音楽器。その音階の解析は音楽全体を解き明かす上での大切な資料になります。こればっかりは,文献でどうだった,音楽理論ではこうのはずだ,といくら喚いたところで,実測データにはかないませんからね。(w)

  偶然とはいえ,出遭えたことに,感謝!


(つづく)

月琴の製作者について(2)

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月琴作者列伝月琴の製作者について(2)-光斎と松琴斎-


  東京派の流祖・鏑木渓菴の本業は画家,なりわいとして古物屋や煎茶の先生をやっていましたが,自分で楽器を作って売ってもいた,とされてます。楽器作家としての号は「清音斎」。同じ名前のメーカーが唐物楽器にもあるので多少面倒くさいですねえ。(w)
  明治時代に香川県で開かれた博覧会の目録(『明治十二年琴平山博覧会出品目録』)に 「月琴(一) 清音亭 高知県阿波国徳島 四宮広次」 とあるのなぞも,その一本らしく,また早稲田大学のアーカイブにある「宇田川榕菴楽律研究資料」にも,その渓菴作の月琴の実測資料が入っています。

  ちなみにこの楽器は渓菴より少し前からの清楽家,というより趣味人として知られていた石田月香の持っていたもので,楽器に紙をあて,フレットや半月の位置で墨をはたいて直接,拓本みたいに写し取ったものですが,これから見るにその楽器は,有効弦長がだいたい420。山口下端から各フレット下端までの間隔が----

4076110136165210234266

-----といったところであったようです。

  いままで採ったデータからいうと,関西の作家さんの楽器と,このところ扱ったなかでは40号クギ子さんなんかがかなり近いですね。

  石田不識(初代)なんかは,音楽のほうでは渓菴の直弟子ですから,楽器もこれに近いかと思いきや意外と合致しませんし,唐木屋の楽器なども,関東の作家さんの中では比較的トラディッショナルな作りをしているんですが,もう少しおおぶりですねえ。

  榕菴さんが測ったこの楽器については,現存しているかどうか不明ですが,各部だいたいの寸法や半月の大きさなんかもだいたい分かってますから,機会があったら復元楽器でも作ってみましょう(w)。

  まあ渓菴の場合は,本人かなりのインテリですから,庵主みたいに手づから木ィ削ってギーコギコ楽器をこさえてたとも思えず,これもおそらくはサイズや意匠を細かく指定して,石田不識のような楽器職や出入りの職人とかに作らせてたんだとは思います。

  古琴,すなわち七弦琴などは基本的に(建前上は)楽器は自作するモノ,ということになっています。このくらいのご高尚な世界になりますと,楽器を弾く,ということは,その音や演奏技術をきわめることではなく,楽器そのものの構造や寸法に秘められた意味あいを,きちんと理解し,それを定めたいにしえの聖賢に思いを馳せる----というところからはじめることになっているからですね。
  さて,そういう 「文人音楽」 の余香を残していた時代の月琴は,長崎に来た清商(清国の商人さんたち)を介して入手した貴重な輸入品であったり,こうして遠山荷塘や鏑木渓菴がしていたように,それらを模して作られた(もしくは作らせた)自作の楽器だったわけですが,明治に入り,そういうインテリゲンチャのおっさんたちが漢詩をうなるための道具から,熊さんお花といった庶民が弾く,手軽で新奇な楽器へと変質するなかで,月琴はその流行に乗ったさまざまな人たちの手によって,大量に生産されるようになりました。
  もちろん,その担い手の多くは,江戸や京阪でもともと三味線やら琴を作っていた楽器屋がいちばん多いわけですが,ほかの楽器と比べると作りがしごく簡単なので,専門の楽器職でなくとも,ヘタをすると,きちんとした木工の経験がないような人でも,「月琴作家」として名乗りをあげられないこともありませんでした。
  一時期はそれこそ雨後のタケノコ,雷後のキノコのように,日本全国各地に月琴の製作者が現れました。28号や39号などはおそらく,指物や工芸の職人さんが自分用として作ったり依頼されて作ったものでしょうが,そういう半プロの月琴職も,けっこういたようです。

  楽器屋として手広くやっていたような人だと,楽器も資料もけっこう残ってますので,調べていけばやがてはどこの誰だか分かるような確率が高まってゆくのですが,そういう専門職ではないヒトや,流行にノって 「たまたま作ってみた」 みたいなヒトの場合は,よほどの直接的な資料----たとえば楽器そのものに,どこの誰兵衛作と書いてあった,とか----がない限り,作者の情報が判明することは,まずありません。

  それでも少しづつ,分かる情報を積み重ねてゆくといたしましょう。



  まずは月琴12号照葉ちゃん。

  工房に来た時には,半月がなくなっていました。こないだ修理した28号に似て,カヤ材をゼイタクに使った楽器で,いまはリュート弾きの永田さんのところでがんばってます。

  最近ネオクにかかった楽器に,これと各部の工作の一致する楽器がありました。
  12号の特徴は,棹がなかごまで一木造で,弦池(ペグボックス)が彫りぬき,糸倉の蓮頭がのっている部分がやたらと長いこと,そしてこのお飾り----菊,なんですが,庵主は 「デメ金」 と呼んでいます。(w)

  ほかの部分はともかく,このお飾りのデザインとぬるっとした彫りはきわめて個性的で,一目見たらまず間違えようがありません。また,わざわざこれを真似する者も,さすがにおりますまい。


  この楽器の作者への手がかりは,裏板の上端,ちょうど棹孔のあたりに捺された小さな焼印なのですが,これが少し薄くて,なんと書いてあるのか読み取れません。二文字目は「斎」なのですが,一字目がてんで分かりませんでした。

  新しく見つかった類似楽器の印の字は「光斎」とあります。
  とりあえず,作者の号がはっきりしたわけですね。
  材や加工工作の特徴から,関西の作家さんだと思われますが,いまのところ分かったのはここまで,これ以上の詳細は不明です。



  つぎに24号油虫と30号の作者「松琴斎」。


  この人の楽器は,むかしから古物でもけっこう見かけるので,それそこの数を作っていた,当時としては大手のメーカーさんだったのじゃないかと思われます。この作家さんについては以前のブログで----

  1)「松音斎」と関係のあるメーカーであろう。
  2)号は,店の場所か自分の名前からとったものだろう。

  といったことを書きました。

  33号や庵主の愛器「コウモリ月琴」の作者である「松音斎」は,丁寧な工作のソツなく音のよい楽器を数多く残しています。ある楽器に残されたラベルによると,2千本以上もの月琴を製造したと思われる大メーカーだったようです。
  「松琴斎」の楽器は材質や工作加工技術の面ではやや劣るものの,内部構造をふくめての楽器の作りや意匠が,ここの楽器ときわめて酷似しており,おそらくは師弟か少なくとも系統を同じくする製作者であったと,庵主は考えています。

  「松音斎」のほうについては,その楽器以外,作者のことはほとんど何も分かっていないのですが,「松琴斎」のほうは最近の調査で,いくつかの資料があがってきました。

  まず明治40年の『関西実業名鑑』。ここに大阪の北区老松町の楽器職として 「明清楽器諸楽器製造販売 伊杉堂 松琴斎」 の名が見えます。同じ店名は大正1年の『京阪商工営業案内』や翌2年の『帝国商工信用録』にも見えるのですが,そこでは住所が 「大阪市北区西梅ヶ枝町八七五(電車通)」 となっています。

  おそらくこれこそが,このラベルのついた楽器の製作者ではないか,というところまでは調べがついていましたが,さて次に,明治36年の第五回内国勧業博覧会の受賞人名録中に 「月琴阮咸琵琶洋琴 北区西梅ヶ枝町 杉村菊松」 という人物が見えます----褒状をもらってますね。

  まず,庵主の調べた限りにおいて,当時この北区西梅ヶ枝町(現在の西天満のあたり)で月琴や清楽器を作っていた楽器屋の情報は,この「伊杉堂 松琴斎」と「杉村菊松」氏のほかには見当たりません。 もちろん,冒頭で述べたように,大流行時にはさまざまな有象無象の製作者が乱立していたわけで,この二者がしっかり別人ということも,100%ありえないことではありませんが,先の推理 2)を思い出してください。

  「杉村菊松」……苗字からとって「伊杉堂」,名前からとって「松琴斎」でピッタリじゃあありませんか!
  「伊」は伊賀の出なのか伊豆の出なのか,あるいは屋号か,幼名が伊太郎だったとか伊之助だったのかもしれません。「菊松」の「菊」でなく「松」を取ったほうは,師匠筋だろう「松音斎」にあやかったものでしょう。

  内国勧業博覧会の資料と『京阪商工営業案内』のちょうど真ん中にあたる『関西実業名鑑』がその住所を「北区老松町」としているあたり,ちょっとまだ不確定要素は残っているもの。「松琴斎」は「杉村菊松」でまず間違いないかと考えられます。

  「明治大正期楽器商リスト」の作成を通じ,どちらのデータもとっくに入力されていたものですが,ふとしたきっかけがないと,こういうものは結びつかないものです。
  今回の偶然は「打ち間違い」でした。
  最近入力した資料で,「杉村菊松」の住所をちょっと間違って入れちゃったんですね,「梅ヶ枝町」だか「西梅ヶ枝町」だか分からなくなったんで,とさに確認のため地名で検索してみたら「伊杉堂 松琴斎」がいっしょに引っかかってきたわけです---- 「伊杉堂…杉村……松琴斎…菊松………だよなぁ」 と,上下に並んだ二つの項目をながめながら,ハタと思いついた次第。

  人事はかるべからず。
  たとえデータになっても,人間の情報と言うものは把握しきれないものですなあ。


月琴39号 東谷 (5)

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斗酒庵 小野東谷に出会う の巻2015.4~ 月琴39号 東谷 (5)

STEP5 東の谷に月はのぼる


  調査報告のところでも書いたように,この楽器の棹には少しねじれがありますので,補正のため,山口はこのように片がわを低く削ってあります。
  こうしないと,左右の弦高が違って操作性に支障が生じますし,ここをいつもどおりにすると,逆にすべてのフレットをこんなふうに片がわ低く調整しなければならないので,かえって大変なわけですね。

  月琴39号東谷,なくなっている部品は少なく,糸巻き3本と棹上のフレット3枚のみ。糸巻き3本はすでに作ってしまいましたので,あとはフレットを削るだけです。
  オリジナルのフレットはマグロ黒檀で作られています。むかしピアノの黒鍵などを作った材ですね。現在は希少な材なのでとても高価です。
  さいわいむかし買っといたカタマリと,その端材がまだありますので,これで作りましょう。

  正直この楽器では,フレットの材が何であっても音への影響はほとんどありません。材質的にツルツルか多少ガサガサかで,操作性にわずかな差は生じますが,それもまあ加工でなんとでもなります。個人的には,ふつうの白竹か,奢って煤竹くらいが,いちばん使いやすいしイザなくなったときにもあんまり困らないからイイのではないかと思ってはいます。月琴のフレットはポロリするもの,削れるもの,なかば消耗品みたいなものですからね。


  とはいえ,この楽器に似合うフレットが,この真っ黒な唐木のフレットであることは間違いありません。小野東谷,デザインのセンスと趣味はよろしい。(W)

  山口が少し低かったかもしれません。全体にかなり弦高が低くなり,一部のオリジナルフレットも,底を少し削ることになりました。新しく作ったフレットも,もっとも背の高い第1フレットが1センチあるかないか,まあおかげで,操作性は良いですし,材料のほうも,かなり小さな端材でなんとか間に合いましたので,結果オーライかと。

  オリジナル位置での音階は以下のとおり----

開放
低4C4D-34Eb+314F-214G-164A-495C-265D-425F-33
高4G4A-64Bb+385C-125D-215Eb+385G-335G#-5A6C-48

  高音域がかなり滅茶苦茶ですね。これもおそらく,東谷さんが楽器職でないところから来ているのだと思います。清楽の基音楽器は明笛で,多くの楽器屋さんではそれに合わせて調整をしたと考えていますが,音と位置を合わせるという技術は,耳と手がある程度慣れてないと,そうそううまくはいかないものです。


  フレットとお飾り類を接着すれば完成ですが,並べて配置等をみてた時に判明----板の上に置くと,ゾウさんがやたらガタつきます。
  最初のほうでも書いたように,このお飾り,もともとこの楽器についていたものでなく,ほかのなにかについていた飾りの一部を,所有者か古物屋さんが,後でへっつけたものである可能性があります。
  裏面の真ん中が微妙にふくらんでますね。薄い板なので,最初は反ってるのかな? とも思ったんですが,測ってみるとしっかり裏側が凸ってました。こんな状態のものを平らな面板にへっつけるわけはないので,このゾウさん,ヨソモノ疑惑ほぼ確定ですね。

  さて,オリジナルのお飾りでない可能性が大きい以上,これを戻すかどうかについて,修理者としての倫理上。いささかの躊躇はありますが----なんとなく似合ってるし,楽器の雰囲気にしっくりと馴染んでもいる。また,40号クギ子さんのクギ穴同様,ちょっとこの楽器の歴史と言うかアイデンティティみたいになっちゃってるフシもありますので,疑念は疑念として,今回は元の場所にへっつけなおしてあげよう,と思います。

  ともあれ,このままではうまく板にへっついてくれません。古物屋さんはなにやら耐水性のあるエラく強力な接着剤で,なかば強引にへっつけたようですが,まさかに真似するわけにもいきますまい。

  裏面を平らにしましょう。しかしながら,モノが薄く,表がわは彫りで凸凹になってますから,これをそのまま擦り板に押し付けたところでうまくは削れません。
  そこでまずは角材にコルクを貼り付けます。そしてそのコルクの上に両面テープを貼ってゾウさんを固定しました。
  コルクが彫りの凸凹にフィットしてだいたいの水平を保ってくれましたので,裏面の凸ったところだけをうまく均すことができました。とはいえあんまり削ると,周縁の輪郭部分まで減って,カタチが変わってしまいますので,8割がたが平らになったところでやんぴ----これでかなりがっちりへっついてくれるでしょう。


  フレット位置を西洋音階に近く再調整して接着。お飾り類はもとの位置へ。原作者が飾りの輪郭の一部を面板上にケガいてくれてましたので,今回はラクでした。

  最後にバチ布を。
  庵主,カラーリングのセンスが皆無なのですが,まあこれが似合うかと思って…緑の牡丹唐草。ゾウとボタンも,畜獣の王と花の王という取り合わせの意匠ですので,よろしいかと。上辺の両端を丸く落として優しい感じに仕上げました。少し小さいかなあ,とも思いますが,もともとバチが胴体にバチバチ当たるような楽器ではなく,この布もお飾りみたいなものですから,これでじゅうぶんでしょう。


  いまだ作者にナゾは残れど。
  2015年6月4日,月琴39号東谷,修理完了です。

  木工の技術は高いのですが,おそらく専門の楽器職ではないため,響き線の構造,ふたつ穿たれた陰月,半月の取付け位置など,多少疑問のある工作や構造が目につきます。とはいえ,まったくのシロウト工作ではなく,おそらく月琴という楽器についても,ある程度の見聞と知識を持って製作されたものであることは間違いありません。

  材質・加工はすばらしく,主材はクワ,唐木をふんだんに使い,胴材の接合や棹の組付けの精緻さには目を見張るべきものがあります。また棹にねじれは生じているものの,補正工作によって運指上の支障はほとんどありません。

  ただ,響き線の構造が特殊で,その動作に制限があるため,少し弾きにくいところがあります。響き線の効果はほんらい,その演奏動作と関係のない線自体の自由運動によってもたらされるものなのですが,この楽器の場合,通常その効果がもっとも顕著になる状態,すなわち響き線が完全フロートになるようにすると,例の支持架にぶつかってノイズが発生しやすくなってしまいます。
  支持架先端の輪の直径は1センチないくらいですので,これに触れずに響き線が完全フロートになる状態を維持するのは,かなり至難のワザです。演奏姿勢が少しでもズレると,ガランガランとやかましい線鳴りが起こり,演奏どころじゃなくなっちゃいますね。

  いろいろと試してみた結果----この楽器ではむしろ 「響き線をフロートにしない」 ほうが,良い音になるらしいことが分かってきました。楽器を通常より前か後ろにやや傾けて,響き線を支持架の輪につけてしまうのです。その状態でも,本体の線がかなり繊細であるため,響き線の効果はじゅうぶんにつきますし,なによりも小うるさいノイズが発生しにくくなります。

  座椅子の背もたれを少し倒して,ややあおむけになって抱えたくらいが,いちばんいい音だった気がします。楽器の演奏姿勢としては多少だらしない恰好ですが,月琴はもともとそんなにご高尚なところのない通俗楽器,気晴らしの演奏にはむしろそれで良いのかも,あるいは小野東谷はそういうものとして作ったのかな,とも考えます。(w)
  あと地べたに座ってあぐらの姿勢で弾くよりは,椅子に腰掛け,かなり立てて弾いたほうが弾きやすく,ノイズもやや少なくなりますね。おそらくほかにも演奏上ベストのポジションがあると思われますので,いろいろと試してみてください。

  現状,ややヌケのない重めの音ですが,切れ切れにかかる響き線の金属音と余韻が,時折リーン…と鈴虫の羽音のような感じになって,これはこれで悪くはありません。音ヌケのほうは,板が乾くと多少改善されると思います。
  音量もそれほど出ないので,コンサート向けの楽器ではありませんが,月琴という楽器の音にはちゃんとなってますし,それこそ月でもながめながら独吟独弾するのには,かえって似合いの一本ではないでしょうか。

  先に公開した40号と同じ曲を,この楽器でも弾いてみました。
  音色の違い,お聴き比べください。



(おわり)


月琴40号クギ子さん (5)

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斗酒庵 またまたアイツに出会う(W) の巻2015.5~ 月琴40号 クギ子さん (5)

STEP5 歌え!クギ子さん!

  つい半月くらい前まで,クギだらけでバラバラだった月琴40号・クギ子さん。
  全身に打ち込まれたクギ穴の補修をしつつ,部品を組み合わせ接ぎあわせ,とうとう楽器のカタチになりました。

  何度も書いてるように,経年変化によって部材に「狂い」が生じてますので,胴体は箱には戻ったものの,あッちが凸りこッちが凹りしています。組む時になるべく段差が大きくならないようにはしましたが,クギ打ちの影響と保存状態の悪さも重なって,けっこうなものです。

  さいわい,この楽器の胴材はやや厚めなので,多少ランボーな整形をしても,楽器の強度や性能にあまり影響は出ないと考えられます。段差が最大でも1ミリないくらいで済んだのも不幸中のサイワイ。ここまでこの,真っ黒でキチャなくなった板や胴材表面のヨゴレをほとんど放置してきたのも,この凸凹といっしょにこそげおとしてくれよう----と思えばこそ。

  さあ仕上げの時来たり!
  まずは端材にペーパーを貼って,胴側をコスりまくります。
  いつもですと出っ張った板だけ削ることのほうが多いのですが,今回は胴体のほうが出っ張っているところもあるので,ペーパーの幅は胴厚いっぱい。胴材と板の小口が面一になるよう,へんなアールとかついちゃわないよう,やや厚めの端材を使って,垂直を出しながらコシってゆきましょう。

  けっこうな量の粉が出ました。
  新しい木肌が出て側面は一見新品同様ですが,ところどころに真っ黒いスジやシミが浮かんでいます。これはすべてクギの痕,正確にはささってたクギの鉄分がしみこんで変色した箇所ですね。

  側部の整形が終わったところで,ようやく表裏の板の清掃です。
  庵主,いつもだと新品同様のまッちろにしちゃうところなのですが,今回は全身の補修痕を目立たせないためにも,ヨゴレを 「取り去る」 というよりは 「散らす」 という方向でまいります。

  重曹水をふくませた Shinex #400 で板の真っ黒なところをコシり,浮いてきた真っ茶色の汁を,修理箇所や側部表面に広げてなすりつけます。
  全体がなんとなく均一になったところで作業終了。
  ふだんよりは多少薄黒いものの,そこそこ見られる様子にはなりましたかな。
  修理痕は近づくとも~いろいろ見えちゃいますが,遠めにはまあなんとか分からない……かもしれない,ていど?(^_^;)


  表板が乾いたところで,半月の接着。
  オリジナルより黒っぽく染め直して,唐木の粉で埋めた大きなクギ穴の補修箇所を目立たなくしてあります。

  庵主,今回の修理で,いちばんしくじりをやらかしたのがこの作業………なんと3回も貼りなおすこととなりました。(汗)

  この楽器の作者「太清堂」は,工作こそ雑ですが,唐物と同じように,楽器に,音に必要な箇所のツボをハズすことはあまりありません。楽器の工作としてはやや無茶なところもあるものの,基本的には月琴としてまっすぐであるべきところはまっすぐ,平らなところは平らになっていることが多い----同時に修理してた39号東谷が,材料や木材加工の腕前からいえばはるかに上なのに,月琴という楽器にはとって,いささか 「?」 のつく工作が目に付くのと対照的なんですね。


  なもので一回目,庵主は原作者の,オリジナルの指示線を信じて,というより,何のギモンも持たず 「元の場所」 に貼り付けたのですが----忘れてました。そういや棹も面板も,この庵主というヘボ野郎が,調整しなおし貼り直したんだということを。(W)
  修理の影響で,楽器の中心線がズレてたんですね。
  一晩たってクランプはずしてながめてみたら,そりゃもうエラいズレてました。
  ここはこの楽器の中でもいちばん力のかかる箇所ですので,接着はかなり強固にやってます。あわあわで一日かけて,せっかくへっつけた半月をへっぺがしました。

  二回目はあらためて楽器を計りなおし,新しい中心線と半月の位置を探り決め,付け直したんですが----

  一晩たって,糸を張ってみたらなンかおかしい。
  楽器の中心線に沿って半月を配置したはずなのに,糸がやたらと左に寄ってるんですね。
  そこでも一度,精査してみますと。胴体の中心線と棹の中心線がわずかばかりズレてたことが判明。オリジナルからそうだったのか,庵主が棹を背側に傾けようとやった調整作業のせいだったのかは判然としませんが,棹がやや左に傾いていたようです。

  そのままでも弾けなくはなさそうだったものの,せっかく苦労してここまで直した楽器です。できる限りのことはしてあげたいもの。


  泣いて二度目のひっぺがし。
  今度こそわ! と意気込んで,半月の取り付け位置を2ミリ右にズラし,糸のコースが左右バランスよくなるようにしたのですが………棹が左に傾いていた,ということは楽器としての中心線も,中心から見て左方向に傾いてるわけですよね。
  そうすると,その傾きに対して垂直でなければならない半月の上辺,まっすぐな部分も傾けなきゃならんハズ----この時はそれを忘れてしまっていました。そのため,一晩たってクランプをはずしたら楽器が,「フッ…」って感じのニヒルな片笑い状態に。(W)

  庵主,XとYだけのまっすぐな棒線グラフは読めるんですが,Z座標が加わるともうダメです。カンベンしてください。

  もうナミダも枯れ果てた三回目。
  取付け位置を右に2ミリ,左方向に1.5度傾けて,三度目の正直。

  この半月がつけば,もう修理完了!----ってくらいだったのですが,貼っちゃあハガしをくりかえした影響,とくに板への負担を考えて,三日ほど次の作業に入れませんでした。

  すべてワタシが悪ぅございました。(泣)


  ……後悔とザンゲの日々を過ぎ,さあラストスパートです!
  全身クギまみれにされてはいましたが,月琴40号,古物の月琴としては欠損部品の少ないほうで,なくなっていたものは蓮頭(もともとついていたのはオリジナルにあらず),山口(トップナット),フレットに扇飾り。どれもたいしたものではありません。

  蓮頭はだいぶん以前に,自作楽器・ウサ琴シリーズの予備として作ったものをとりつけました。
  ただ染めて塗っただけの雲形板ですが,資料を見ると,この作者の楽器の蓮頭は,同じような無地の板が多かったようです。全体に地味なデザインの楽器でもありますから,今回はあえて凝らない方向でまいります。

  山口はカリンで。指板が取付け部手前で切れている形式ですので,指板の厚さぶん高めに作ります。

  調査報告の中でも紹介しましたが,扇飾りにはこういう(左画像参照)感じのものが付いていたと思われます。 たぶん鳳凰か龍をとことん簡略化したものじゃないかとは思われますが,なんかぬるっとした邪神様か寄生生物のよう。さすがにこれをそのまま彫ると,庵主のSAN値が直撃されそうなので,フォルムだけいただいて,楽器ですし 「弁天さま(=ヘビ)と宝珠」 という,比較的分かりやすい意匠に変えさせていただきました。

  右の目摂のシッポが欠けてますので,左のお飾りから型をとり,ホオ板の端材で補いました。
  続いて,この部品の裏がわには,おそらく東谷のゾウさんについてたのと同じ,耐水性のある強力な接着剤が全面に塗られていましたので,両面テープで角材に貼り付け,擦り板で削り落とします。なんせこのままだとニカワも滲みてくれません。
  この菊のお飾り,どうやらクスノキの板で出来てるようですね。
  裏を削っていたら,嗅ぎ覚えのある独特のニオイが……打楽器や細工物には使われる材ですが,月琴で使われてるのを見たのはハジメテですね。

  フレットは前回28号の修理で実験的に作ってみたもの。
  今までにない染め方で古色をつけ,けっこういい感じのアメ色になったのですが,けっきょく使わなかったのですね。
  ちょうど1セットぶんあるし,サイズ的にもさほど違いはありません。染めのほうは例によって,(庵主の脳内範囲での)人智を超えたカガクハンノウのたまものですので,もう二度と再現できないかもしれません(W)が,まあせっかく作ったモノなので使ってしまいましょう。

  オリジナルの位置にフレットを置いたときの音階は----

開放
低4C4D-34Eb+314F-214G-164A-495C-265D-425F-33
高4G4A-64Bb+385C-125D-215Eb+385G-335G#-5A6C-48

  この楽器の音階としては,比較的そろっているほうだと思います。第4フレットは釘打ちの影響で正確な位置が分かりませんでしたが,だいたい面板の端のほうにあったようなので,32号の記録等も参照し,山口から135に位置するものとしました。


  音階を記録し,フレットを西洋音階の位置に,手入れしたお飾り類を貼り付けたら。

  月琴40号クギ子さん,修理完了です!


  この人の楽器を修理すると,だいたいいつも思うことなんですが。
  口惜しいほど音がイイんですよね。
  修理していると,工作の粗さやデザインのテキトウさが目について 「このやろ~」 とか思うんですが,仕上がってみると,きちんとマジメに,ていねいに美しく,精緻に作られた楽器より,はるかに音がいい。
  ----なんなんでしょうね,これは。

  伸びのある音,大きくはないけれど美しい余韻。
  内部構造,とくに響き線なんかは大きく異なりますが,音色はやはり唐物に近い感じがします。
  前作32号に比べると,胴体にカヤ材を贅沢に使っているためずっと重たいのですが,バランスは悪くない。そしてその分厚い胴体のおかげでしょう,低音の響きが素晴らしい。
  棹を傾けたため低音域のフレットは高く,高音域はかなり低くなっています。加えて調整もうまくゆき,ほぼフェザータッチで音の出る,この楽器の操作性としては理想的な状態になっています。

  あーもったいない,ほんとにもったいない。
  こんな好い楽器をクギだらけにしよるとわ…


  欠点といえば,その補修痕がまあ,どうしてもそこそこ目立っちゃうというところと。使い込まれて糸巻きがかなり減ってること,あとはお飾りなどが多少地味なところでしょうか (赤いヒヨコとか32号のぬるっとした「コウモリ」なんか考えますと,個人的には,この楽器のお飾りは,このヒトの彫ったモノとしては,かなりマトモな部類だと思うのですが www)

  ぱッと見にはさしたる特色もなく,中級普及品くらいって感じですが,音色は確かにホンモノ----それどころか月琴という楽器の,「音」を追求した実用本位の一品としてはかなりの上物です。

  クギ打ちの暴挙から復活して,ようやく「楽器」に戻れたクギ子さん。
  できるならこの後は,「楽器」としてシアワセになってもらいたいものです。

  試奏はこの曲で。
  同時修理の39号でも同じ曲を演ってますので,音色の違いなど聴き比べてみてください。



(いちおう,おわり)


月琴40号クギ子さん (4)

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斗酒庵 またまたアイツに出会う(W) の巻2015.5~ 月琴40号 クギ子さん (4)

STEP4 一分のカケラにもゴミみたいな命がいとおしい


  ほとんど虫に食われてスカスカの板もあります。変なカタチに切り取られた板もあれば,1センチに満たない破片もあります。

  一見ゴミ,に見え----何度見てもやっぱりゴミなのですが,これは過去の修理で出た古い面板の破片,言ってしまえばやっぱりゴミです。こういうものをさも大事そうにとっておくような爺ィは,ボケたら間違いなくゴミ屋敷を作るようになりますから注意してください。(W)

  胴体も棹もバラバラなら,表裏の板もバラバラ。完全バラバラのムッシュバラバラな40号クギ子さん。懸案のクギ抜き作業は,クギのカケラと鉄サビの滲みた木屑で軽く一山ぶんの犠牲は出したもののなんとか終了。

  半月と棹や側板,堅い木の部分にあいたクギ穴はすべて埋め込みましたが,柔らかいところ,表裏面板のクギ穴がまだ残っています。

  面板は,オモテもウラも完全バラバラ,穴だらけ。
  正直新しい板で張り替えたほうがラクなんですが,このクギ穴,この楽器のアイデンティティであり歴史である,とも言えなくはありません。もちろん,そのまま残すつもりはありませんが,この圧政者による不当な扱いを後世に伝え,万国の労働者を奮い立たせるためにも,なんとなく残しておきたいと,庵主は胸に思うわけです(意味不明.W)

  まずはクギ穴を埋めます。----この板の場合 「クギの穴」 というよりは,ペンチやニッパ-で釘の頭をホジくりだしたときについた 「作業痕」 ですね----サビ釘の入っていた穴の周囲にできたそういうヘコミを,アートナイフで不定形にホジくります。
  そこを薄く削った面板の破片で覆ったり,木粉パテをつめこんで充填----これを表裏すべての小板のすべての釘穴ひとつひとつに順繰り施してゆきます。表板だけで20箇所くらいあります。そのほかに板裏や矧ぎ面の虫食いや,損傷によるヘコミ,割れ欠けなんかも埋めましたからね~,けっこうな作業量です。

  補修でできたハミ出しや表面の凸凹を整形し,小板を矧ぎ直して,丸い一枚の板にもどします----まずは表板から。
  作業は2段階に分けて,慎重にやっていきます。
  割れたまま何年も放置していたもので,虫食いのほかにも板の収縮による狂いが出てるところもあります。矧ぎ継ぎ面の調整を少ししてから,まずは左右端の2枚をのぞく真ん中の部分を再接着----左右を直線にしておくと圧がかけやすいので,こんな薄い板でも,よりしっかり接着できますからね。
  一晩おいて問題がないのが分かったところで,残しておいた左右端2枚を接着。

  再生した表板に,側板を接着します。
  これも順繰り,まずは天地の側板。
  板はあらためて計りなおし,中心線とか四方接合部に目印を付けてあります。
  板も側板もわずかですが変形してしまっているので,もとの位置にはおさまりません。組み合わせた時に,それぞれの部材をもっとも整形しなくて済むような位置や角度を微妙に探りながらの作業です。

  結果,表板に合わせた場合,天地の側板は左右端が0.5ミリほどでっぱり,楽器に向かって右下の接合部に,3ミリほどのスキマができてしまいました。前にも書きましたが,この楽器は構造上,上下方向への支えになるものがほとんどないので,使っていれば弦のテンションによって,天地の側板が広がり,左右の側板はわずかに縮むわけですね。

  まあ,百年で3ミリなのですから,これはこれである意味たいしたものなのかもしれません。(w)

  この後の作業はしばらくこの,裏板のないオープン状態で行うことになります。

  オープン状態じゃなきゃできない作業その1。
  まずは胴体四方の接合部の補強。太清堂の楽器「赤いヒヨコ」「ぬるっとさん」には,どちらも接合部の裏面に補強の小板が接着してありました。

  接合部の裏面に黒く接着痕が残ってますから,この楽器でも同じ工作がされていたのは間違いないのですが,オリジナルの補強板はすべてなくなってしまっています。
  接合部の大きなスキマをツキ板などで埋めてから,桐板の端材を削り。接合部のデコボコに合わせて接着します。オリジナルの工作はここまでではなく,単に四角く切った小板を渡して接着した程度だったようですが,もちろんこちらのほうが,より強固な補強になります。
  さらにここは後で,上から和紙を貼り柿渋で補強しておきましょう。胴材が密着しているかいないかで,この楽器の響きは大きく変わります。また,手の届かない内部の部品ですから,かんたんにハズれてもらっちゃあ困りますもんね。ちょっとしつこいようですが,転ばぬ先の善後策を講じさせてもらいます。


  本格的な板と側面の均しは,胴体が箱になってからやりますが,接合部の補強も終わり,胴体構造が安定したところで,この後の作業のため,棹口のところだけ先に少しキレイに整形しておきましょう。

  修理前の全景画像など見ていただけると分かるんですが,工房にきた段階でこの楽器の棹は,表面板がわに傾いていました。一つには延長材が抜けて,棹がクギ打ちされてたせいもあるんですが,棹基部を調べた結果,もともとの設定でもよくて胴水平面と面一,もしかすると,これと同じくわずかに表面板がわに傾いてたらしいことが分かってきました。
  このブログで何回も書いてるとおり,月琴の棹は山口のあたりで,胴体水平面から背側に3~5ミリ傾いているのが,本当は理想です。

  今回の場合,さいわいにも延長材がすッぽ抜けて,いかにも 「やってくれ」 と言わんばかりの状況になっております。棹の基部,胴体に触れている部分と延長材の接合部分を削って,棹の傾きがちょうどいい角度になるように調整してあげようと思います。


  まずは棹基部を斜めに削って,棹を挿したときに理想の傾きで固定されるようにします。(画像左) ほんの1ミリ,削るか削らないかですが,棹全体としては大きな動きになるので,ちょっとづつ,丁寧にやっていきます。
  それが終わったところで延長材の調整。棹本体の接合部にさしこむ部分を削って,延長材が内桁のウケにきっちり入るように角度を調整します。(画像中) 胴体が箱になってる状態だと,あとどんくらい削れば,延長材がウケに入るようになるか,分からないですからね。この作業もオープン状態じゃないとうまく出来ません。

  調整の結果,棹と延長材があさく「への字」になり,(画像右参照)棹を挿すときに少しコツが要る(w)ようになりましたが,棹孔や内桁のウケに工作上の余裕(テキトウ,とも言う)が若干あったおかげで,これ以上の加工をしなくて済みました。テキトウばんざい!


  内桁も接着しておきましょう。
  やはりこれ,材はクリのようですね。
  接着の準備作業で分かったんですが,この木,水はけが良すぎて,ニカワがなかなか表面まであがってきてくれません。 まあその耐水性のよさを買われて,家の根太なんかに良く使われる材ですから,とうぜんつっちゃあとうぜん。
  面板裏面に作業した痕跡はあるのにニカワが残っていないのも,おそらくこれのせいでしょう----ふつう使われるヒノキとかスギみたいな感じで,おざなりにペッっと塗ったぐらいじゃ,間違いなくニカワ不足でハガれちゃうでしょうね。先人の轍を踏まぬよう,20分ぐらいかけて筆で水分とニカワを馴染ませ,材の表層が飽和状態になり,浮いてきたニカワで表面がちょいとベタつくようになったところで,これを同様によく濡らして薄く溶いたニカワをしませておいた面板に置き,重石をかけて圧着します。

  内桁の表板がわの両端は,例によってほんの少し斜めに落としてあります。
  何度か書きましたが,表板と内桁をより確実に密着させるための小技ですね。

  これで裏板を矧ぎ直してへっつければ,胴体は箱に戻るわけですが,ここでまた一工夫。
  すでに書いたように,わずかではあるものの狂いの出てる胴体に真ん丸い板をもとのとおり貼り付けるのは不可能です。表板のほうは部材を「板に合わせて」組んだので,板との段差は最小で済ませることが出来ましたが,裏板はそうはいきません。 裏板にはスペーサーを組み込んで横幅を少し広げ,整形による板や胴体への負担を最小限におさえる工夫をしましょう。


  裏板はぜんぶで8枚の小板によって構成されていますが,真ん中に近い右から3番目と4番目の板の間に幅3ミリほどのスペーサーを後で入れることとし,まずはこの左右の小板をそれぞれ継ぎ接ぎ,真ん中は接着しないでおきます。
  いつもですと,だいたいの幅のスペーサーを入れて矧ぎ直し,横にハミ出たぶんの板を削って仕上げるのですが,今回は板が傷物です。ハミ出させるとちょうどそのキズを補填した箇所にあたりいろいろ厄介。胴体が横方向に広がってることは間違いないので,板を二つに分け,左右をなるべくぴったりに貼りなおし,広がったぶんをきっちり埋めてゆこう,という作戦なのですね

  さて,ここで問題が一つ。 左から3番目のせまい小板だけが厚みが違ってます(0.3ミリほど薄い)ので,このまま戻すとここだけうまくへっついてくれません。
  桐板の端材を切って削って薄いパッチを作り,周縁と内桁に触れる部分に接着。面一に整形します。うーむ,なんでこんな板継いだものかな………もとから裏板には表板より質の劣る板が使われるものですが,それにしてもヒドいな~(汗)
  裏板にはこのほかにも大きなエグレのある小板などもありました。このエグレは桐板を作る時に打った竹釘の痕なのですが,これと隣り合う小板にこの延長にあたる痕跡がないところから,この板自体が古板を継ぎなおしたリサイクル品(w)なのではないかという疑いも出てきましたね。

(つづく)


月琴39号 東谷 (4)

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斗酒庵 小野東谷に出会う の巻2015.4~ 月琴39号 東谷 (4)

STEP4 東の谷間への道は,遠く曲がりくねっていた


  晴れた一日,公園で糸巻きを削っていて気がついたんですが。
  この楽器,棹が少しねじれてますね。
  胴体の表板の水平面を基準としたとき,第1フレット取付け部のあたりから糸倉全体が,左に最大2度ほど傾いてしまっています。

  ほかの月琴でも,棹や糸倉の歪みというものは多少なり,かならずあるものですが,これはけっこうヒドいほうですね。以前修理した石田不識の楽器などでも,この楽器と同じように棹の先端が微妙にねじけましたが,この場合は,糸倉の先からなかごまで一木造りという,不識独特の特殊なつくりと素材の問題から生じた狂いの結果と思われます。今回の楽器は,棹に貼りついている指板に影響が何も出ていないことを考えると,単純に原作者の工作不良が原因と考えたほうがよいでしょう。

  同時に修理している40号など,木部の工作加工はこの東谷の楽器におよびもつきませんが,こういう音や操作性に関係しているあたりはけっこうしっかりとしていて,山口取付け部から半月までのラインに歪みなどありません----このあたりからあらためて考えてみますと,木工のウデマエはさておき,「楽器職」としてはどッちが上だか,ちょっと悩んじゃうところですね。

  指板をいちどはずし,棹を削って胴体水平面に合わせる,というのが,この棹のねじれに対する,根本的かつ最良の修理ではありますが,けっこうな大作業になってしまいますので,今回は山口のほうを加工して対処することにしたい,と思います。(汗)

  いつもの通り左右対称に四角く削ると,上左画像のように,左がわが高くなってしまいますから,山口の左がわを少し低く削って,左右の弦高が一定になるように調整します。 第2フレットから先はさほど問題はなさそうですが,これだとおそらく,第1フレットは左右不均等に作らなきゃならないでしょうねえ。

  棹本体と延長材とを再接着します。

  棹基部に木釘が打ってあるおかげで,ニカワ接着が完全にトンでいる現状でもハズれはしてませんが,棹と延長材を持って動かすとカクカク揺れちゃうくらいですんで,もちろんこのままでは使いものになりません。

  合わせ目にお湯をふくませ,延長材を上下させてスキマをあけしめすると,ここでもよぶんに大量に使われてたと思われるニカワが溶け出し,ぶくぶくと茶色い汁やアブクになってあふれ出てきました。
  これをぬぐい,ぬぐい。
  しみだす汁があらかた透明になってきたところで,新しいニカワをスキマにたらし,再びクニクニ----けっこう時間のかかる作業となりました。
  新しいニカワが接合部全体に行き渡ったところで,クランピング。
  大事な場所ですので,用心のため二晩ばかり放置して,じっくりと圧着します。

  表板の補修に入ります。
  まずは真ん中下端から,楽器の中心に沿ってのびるヒビ割れの処置。太い所は桐板を薄く削った埋め木で,細いところにはアートナイフの先で木屑を埋め込みます。

  内部のほうから見ると,このひび割れのとこ,ちょうど板の矧ぎ目なんですね。
  板目の一枚板に見えるんですが,ここと左右に1~2枚,全部で3~4枚の板を矧ぎ継いであるようです。木目のあわせが巧妙なので,ちょっと気がつきません----この作者,こんなところはほんとうに上手い。

  半月下にあらたに見つかったエグレは木粉のパテで埋め込みました。逆に削って板を埋め込むのとどちらにするか少し悩んだのですが,けっきょく最近見つけた新工法でのパテ充填としました。
  こうした深めのエグレを埋めるときは,まずエグレの底にニカワを塗り,パテをふだんより少し多めに盛ってラップをかけ,板を当てて軽く圧をかけます。すると木粉パテの空気が抜けて,かなり堅牢な充填補修となります。ただし,この部分は硬いのですが,表面がややモロく,湿気等にもあまり強くありません----しかし今回の場合,ここは半月の接着後には外部から保護された密封状態となりますので,問題がないわけですね。
  メクレて浮いてしまっている部分も,はじめにニカワをふくませてから,周りをパテでうめ,メインの充填部同様に当て板とクランプで軽く圧縮してやります。 じゅうぶんに硬化したところで,表面を削って均します。 ふつうに練ったものを盛っただけだと,モロモロした感触なのですが,圧をかけた場合は硬くカリカリした削り心地になります。半月の接着部ですから,ちょっと慎重に,ていねいに水平を出しました。

  内部構造の確認と,響き線の処置が終わったところで,早々と裏板を閉じてしまいましょう。
  響き線とその支持具は,すでに Shinex と柿渋を使って軽くサビ落しをし,ラックニスを薄く刷いて防錆措置を講じます。
  この響き線がはたしてちゃんと効果を発揮してくれるのか,一抹の不安はありますが,とにかく弦を張って音が出せるようにしなきゃ,そのあたりの検証もかないません。

  例によって丸い胴体からハガしたこの手の板が,元の位置に寸分狂いなくぴったりおさまってくれることはまずもってありませんから。胴体についたままになっている残りの板との間に,材の収縮で縮んだぶんと,再接着のための余裕を確保するため,幅3ミリほどのスペーサーを噛ませることにします。

  裏板の再接着と同時にやってしまいたいところですが,今回はこの景色のある板をなるべく損ないたくないので,まず板を接着し,間に出来た溝に合わせてスペーサーを削ってハメこむ方法でまいります。
  材料は28号の修理で切り取った部分----材料が少し厚めで目も詰んでいたので加工がうまくいき,かなり長かったのに一本で埋まりきりました。

  さてさて,板の表裏の処置が済めばあとはイロイロ戻すだけ。
  半月裏面がすこしデコボコなので,擦り板で削って軽く均します。

  この赤い本体部分はカリン。長年の放置とこないだハガすのに濡らしたせいで,すっかり油ギレして,ツヤもなにもなくなってしまっていますので,まずは亜麻仁油で磨いて数日乾燥,ラックニスを軽くしませます。

  素材のツヤと色合いが戻ったところで,上面のお飾りを接着。
  そのままだと本体部分がやたらテカテカしてて気持ちが悪いので,「灰磨き」をして仕上げましょう。まずは全体に木灰をぶッかけ,歯ブラシでこすって細かいとこまで行き渡らせます。つぎにこの歯ブラシに柿渋をちょっとつけて,全体をゴシゴシ。
  乾いたところで,もいちど歯ブラシでこすり,灰をあらかた落とすと,本体部分のツヤも落ち着き,ちょうどよい感じの古色もつきます。

  半月の位置をあらためて探ってみますと,またひとつ東谷の工作のアラがあらわれてきました。

  棹孔の中心を基準として,胴体のタテヨコを出したときに推定される中心線が左画像(クリックで拡大)の赤い線です。この線は,なぜか二つある半月裏の小孔のうち,右がわの小孔の真上を通っています。
  これに対し,棹をとりつけたとき,指板の中心線を延長して得られる弦のコースの中心線は青い線。本来あるべき楽器としての中心線から,右まわりに2度ほど傾いてます。この線は左右の小孔のちょうど真ん中を貫いてますね。

  すなわちこの楽器は,棹がねじれてるだけでなく取付け角度も少し狂っちゃってるわけです。まあこのブログで何度も書いてるとおり,月琴の場合,作った結果こういうことになったとしても,半月の位置の調整でじゅうぶんに使用可能な楽器とすることができますので,このこと自体はさほど珍しい事態ではありません。

  ただコレ,材質からも工作からも,専門職による量産楽器とは思えないので,おそらくは東谷さんが楽器作りに慣れてないことからくる,加工上のミスだと思われます。最初に小孔をあけた時点では,楽器の中心線は本来の赤線がわだったと思いますが,じっさいに棹を取り付けてみたらこういうことになってしまっていたので,反対がわに小孔をもう一つ穿って,なんか---- 「左右対称にしたよ!」 的にゴマかしたんでしょう。(w)

  新たに中心線を出して糸を張り,弦のコースがちょうど良くなる位置を探って,半月の再接着です。とはいえおそらく,オリジナルの位置とほとんど変わりません。
  角度が少し変わったくらいかな----オリジナルでは,高音弦がわがほんの少し下がってたようです。

  さて,39号東谷,これでフレットが立てば楽器としての本体修理はほぼ完了。
  どんな音が出るのか,かなり楽しみです。

(つづく)


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