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月琴の製作者について(3)

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月琴作者列伝月琴の製作者について(3)-月琴作者の肖像-

 55号の修理はスローペースで進行中。
 4月にやらかした庵主こむらがえり,からの肉ばなれによる戦線離脱の影響,いまだに癒えず……あ,いや肉ばなれ自体はだいたい治ったんですけどね。懐入りがほぼ半月ぶん減ったもので。口のほうはともかく,研究のほうまではおアシがちょいと回らず,資金難のためちょくちょくと中断しております。
 野良の研究者ってのは,ほかが自由なぶん,まぁこういう時には困りますなあ。(w)
 作業ができないぶんは,できるとこから,ほかを進めてゆきましょう。

 現在,庵主がぱッと見で判別可能な月琴の製作者は,おそらく10人くらい。
 それもごく特徴的な工作・加工がなされていたり,ラベルが残ってたりする場合に限ります。

 名前はよく知っていてもその楽器をいちども見たことがない作者もいれば,こないだの52号みたいに,同じ作家の楽器はたぶん何度も見ているのだけどそれがどこの誰なのか分からないのもたくさんあります。
 大流行期,全国でいったいどれぐらいの人が,この楽器をせっせこっせっせこ作ってたかとなると,ちょっと想像もつきませんからねえ。
 もしご尊顔をおがめたなら,庵主,あちら(あの世)に逝ってから,ともに酒でも飲みかわしたいような御仁も,また出会いがしらドタマをゲンノウで横殴りにしてやりたい奴輩もたくさんおるのですが(w)もともと楽器店というものは,製造から販売までほとんど一人でやってるような,ごく零細な業者が多く,彼らがどんなツラぁしてたのかなんてことは,まず分からないものです。

 庵主が自分の研究の便にとこさえているものに 「明治大正期楽器店リスト」 というのがあります。
 実際には江戸幕末のころの資料からはじまってますが,主に国会図書館の資料中にある三都(江戸・京都・大阪)の買物案内や商店録を中心に,楽器屋の項目を見つけ出しては抜き出してるもので。2011年にはじめてもう6年くらいになりますか。そこそこけっこうな数のリストとなっており,この作成のおかげ(?)で,庵主,一部の作者さんに関しては,住所本名から電話番号まで,ほぼストーカー的知識を有するに至っております。(ただし,たいてい現在その住所に店はなく,電話番号は4桁だったりしますがww)

 庵主は頭の良いほうの研究者ではないもので,こういう場合の情報収集も,もっとも頭の悪い方法しか採ることができません----すなわち,あやしいとニラんだ資料をかたっぱしから開き,頭っからぜんぶ読んでゆくわけで。(w)
 もちろん,インデックスが付いてる場合はそこまでしません。何十冊何百頁めくって,琴三味線楽器の一文字も見つからないことも多いですね。でもまあ,昔のおかしな広告とか流行り物の宣伝とか,それなりに面白い余録がついてくることもあり,実はそれほどキライじゃないんです,この作業。

 今回はそんな最近の作業の中から,ちょっと奇跡的な例をいくつか。

 まずは『浅草人物史』(大正2)から 清琴斎仁記・山田縫三郎氏の肖像---若いなあ,なんかどっかのお坊ちゃんみたいですね。

 浜松の生まれで山田高次の二男。この父親は幕臣・近藤登之助の家臣だったそうで……おっと,近藤登之助といえば「旗本退屈男」のモデルじゃないですか。そこの家臣とな。
 旗本の家臣で,静岡は浜松ということは,維新後,徳川の旦那に従って一族移住した口ですな。十五六歳で上京,二十代で師匠の工房を受け継いだとのこと。

 その後,東京の楽器商の顔役みたいな存在にまで登りつめてたようです。庵主,都内うろついてて,三味線やお箏関連の碑文に名前を見つけて「おお~」ってなったことが何度かあります。

 この人が月琴を作っていたのはおそらく明治20年代の後半から。
 師匠で清琴斎初記・頼母木源七とともに,月琴をふくむかなりの数の清楽器を世に送り出したもようです。
 楽器のスタイルとしては関東型の棹長くやや大型なタイプ,基本的には量産型の普及品が多いのですが,部材の加工が精密で堅牢なうえ,生産数もやたらと多かったと見え,現在でも相当の数の楽器が残っていると思われます。
 木目などから見てあまり質の良くない材料でも,均等で精密な部材に仕上げていることから,伝統的な工具ではない,近代的な加工機械,たとえばボール盤やジグソーのようなごく単純な洋風工具を用いられていたのではないかと思われます。



 実際,師匠の頼母木源七と彼は,スズキバイオリンの祖,鈴木政吉と同時代かすこし前くらいに,国産バイオリンを手掛けたりもしていますし,後に販路を広げ,三味線・琵琶や箏などの邦楽器のほかにも,縦型ハーモニカ吹風琴や洋楽器類も手広く扱っていますので,いろんな楽器に対応できるような最新の工具を備えていたとしてもおかしくはありませんね。

 明治の末,農商務省山林局が『木材ノ工芸的利用』(M.45)という本を出しています。
 タンスやらイスといった家具のようなもの製作法やら,伝統的な各種組継ぎの方法,箏や三味線など楽器類の部材採りからその工法までがかなり詳しく書かれていて,その筋の自作木工マニアにはちょっとたまらん内容になっておるのですが。これを編むとき,東京においてまだ月琴など清楽器を作り,その用材や加工法について語ることの出来る者は,この山田楽器店主・山田縫三郎くらいしかいなくなっていたようです。


 最近,庵主はそれまで「目摂」と書いていた,月琴の胴体左右の飾りを 「ニラミ」,凍石などで出来た柱間の 「小飾り」 と書いてますが,それはこの本での山田縫三郎による記事から。「目摂」に比べますと,製作者間で通用の呼称みたいな感もありますが,同じ江都にてこの楽器に関わる者としてのセンパイ・リスペクトっす。(w)

 また以前「明笛について(19)」という記事で,昭和10年に出された 『工業・手工・作業・実習用材料-木・竹編-』(小泉吉兵衛) という本から右のような写真を引いたことがあったんですが----これ,この『木材ノ工芸的利用』からの無断転用だったみたいですね。まったく同じ写真が載ってましたから。

 とすればこれは,山田縫三郎の店の一角。すでに作られず売れもせず,倉庫にでも残っていた清楽器をかき集めた光景だったのかもしれません。

 20代で店を任され,博覧会や展覧会でも賞をとりまくってますから,創業者・山田縫三郎の手腕はもともと優れたものだったのでしょう。加えて時代を先読みした商品の拡大路線は当って,清楽が衰えたのちも,山田楽器店は蔵前片町の本店のほか神田にも支店を出すなど,いっときは都内でもそこそこの大手だったと思われます。


 大正1年の『京阪商工営業案内』の広告を見ると,猿楽町支店の店主名が 「名倉幸之助」 になってます。この人も明治終わりごろの博覧会で清笛・明笛・喇叭の類でよく賞をもらってた作家さんですねえ。山田縫三郎も吹風琴作ったり尺八で賞をとったりしてますので,糸竹両方イケた口だったんでしょう,うらやましい。(w)

 その後,昭和10年代に本店を神田に移した(昭和9年の電話帳ではまだ蔵前片町)もようですが,昭和17年の中央区の電話帳にもまだ「山田縫三郎 山田楽器店 神田小川町」と記されてますからそのあたりまではどうやらご存命。その後裔がそこで戦後~昭和40年くらいまで楽器店を続けていたそうですが,ざんねんながら本店のもとあった浅草蔵前片町にも,支店のあった猿楽町にも,いまは何も残ってません。

 この件に関しましては,「楽器商リスト」の縁による,
  さるヴァイオリン・マイスターからの情報で道がイッキに啓けました。
 まことにありがとうございます!



 あと二人,最近あい次いで 「面の割れた」(w)作者がおります。
 まずは明治43年刊『名古屋知名人士肖像一覧』より,「鶴寿堂」こと鶴屋・林治兵衛。

 「鶴寿堂」の楽器はこのブログでも,もう3回ほど登場していますね。
 カヤを主材とした重厚な音のする楽器の作家さんです。一見すると飾りも少なく,どちらかといえば武骨な感もあるのですが,よく見ると蓮頭やニラミ,扇飾りなどにきわめて精緻な彫りが施されている場合があります。またネックの裏がわ,棹背のところについた微妙なアールが美しい----細すぎず太すぎず,なだらかなふうわりとした曲線は,まさしく店名・堂号にある「鶴」の首みたいです。

 あと,ラベルのほか,かならずどこかに署名を入れてくれてるのも有難いですね。板書きしたものではありますがその字もなかなか達筆ですし,22号のように 「花裏六(注)」 なんて洒落た銘を入れてたりするとこから見ても,けっこうな教養人だったのではないかと思われます。『愛知県実業家人名録』(M.27)のころの住所は上園町。明治の終わりごろには西区下長者町一丁目になっています。この人も,月琴の製作は明治20~30年代のようですので,楽器に書された住所は上園町になってることが多いですね。

  注:花裏六=訶梨勒で,おそらくは楽器同様に壁にぶるさげられる伝統的な飾り物に見立てたもの。

 庵主の見つけた資料中で彼の名前が最後に見えるのは,明治45年版の『交信資要』。大正12年に出された『愛知県商業名鑑』では,鶴屋の店主は 「林岩蔵」 となっていますので,この10年あまりの間にお亡くなりになったか,引退して代替わりなさったのではないかと。同じ資料によれば 「創業は安政年間」 とのこと。

 なるほど,老舗の主人っぽい----そう思ってみると,写真の風貌も実にそんな感じですね。
 ガンコそう(w)


 おつぎも同じく『名古屋知名人士肖像一覧』より,小林倫祥。
 このブログの記事では扱ったことがありませんが,楽器は何度か見かけ,実際に手に取ったこともあります。
 彼の月琴はあまり奇抜なところもなく,ごく「標準的な楽器」という印象。清琴斎のものによく似た量産月琴を,けっこうな数作り,大流行期の関西方面ではけっこうメジャーな作家の一人だったようです。
 こちらも山縫同様,博覧会で何度も賞をもらってますから,腕前はもちろん悪くない。
 清琴斎の楽器に比べるとやや棹が太く,部材の加工精度はわずかに劣りますが,材は若干上等。胴がやや厚めで,響きは悪くないです。ほのかに暖色な空間系。

 うん,山縫同様,やっぱり洋装ですね。
 なんとなくそう思ってました(w)

 大正2年の『名古屋の実業』には

…明治維新ニ至リテ弾琴ノ道大ニ廃絶シ,深窓ニ弾奏ノ声ヲ絶チ,古琴ハ多ク古物商人ノ店頭ニ曝サレ,甚シキハ破壊シテ火鉢ニ製作スルコトノ流行スルニ至レリ。明治五六年ノ頃,市内袋町・小沢林蔵,小林倫祥,大ニ之レヲ惜ミ,多ク古琴ヲ買収シテ他日ノ流行ヲ期待シツツアリシニ,明治十四五年ニ至リ弾琴ノ趣味勃興シ,古琴応用ノ到底需要ノ大勢ヲ充スニ足ラザルヨリ,小林氏モ琴製作ノ業ニ転ジ,是ヨリ次第ニ製作者モ増加シ来リ今日ノ盛況ヲ呈スルニ至レリ。

----と,その楽器店主となった経緯が書かれています。
 こういうの読んじゃうと,月琴の流行期にその製造にまで手を伸ばしたのは,「同じ "琴" だから」 みたいなところも多分にあったのかもしれない,とか考えちゃいますねえ。まあ,その月琴もまた,時代の流れでかつての「古琴」と同じような扱いを受けることになるとは,作ってた時には想像もしなかったかもしれません。

 おじいちゃんやご先祖が「楽器を作ってた」なんて伝承の伝わっている方にお願い。
 一度ぜひ「明治大正楽器店リスト」をたぐってみてください。
 そんでもしその中に該当する人物がおったなら,庵主までご連絡を---
 ウラ話とか残ってたら,ぜひそれも添えてね(w)
 どうかよろしくお願いいたしまあす!!
(つづく)


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