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『崎寓漫録』における月琴とその構造

古書における月琴
斗酒庵 古書をふみとく の巻『崎寓漫録』における月琴とその構造について

 今回は,修理過程の紹介をちょっとお休みして,最近見つけたちょっと興味深いことなど。

 『崎寓漫録』(無窮散人)という本があります。
 『崎寓漫録換午睡』とも題し,鎖国時代の長崎で見聞きしたことをまとめた本の一種ですね。当時の長崎は知識人や文人にとって,最先端の知識・情報が得られるあこがれの地でしたから,こういう見聞録の類がけっこうな数残されています。
 写本で伝わり,いくつかがウェブ上で見られるますが。その中では国立博物館のアーカイブにある写本がいちばん状態がいいかな。
 序文の記年は天保7年(1836)。これだとまだ平井連山も鏑木渓菴も清楽家として世には出てないころ。ひとつ前の世代,連山の師匠の曽谷長春だとか,渓菴の習った宮沢雲山なんかが活躍していた時代ですね。
 この『崎寓漫録』にこんな月琴の図が載っていました。
 解説にはこの楽器について 「胴棹柱天柱共紫檀/両面桐薄板胴指径一尺七分/厚一寸五分/柱長キモノ二寸二分,短キモノ各一寸六分/(糸倉)4寸/(棹本体)三寸三分/糸通蝙蝠尾形共大サ寸法如図」 とあります。仮名混じりのインチキ漢語風文体(w)ですが,訳しますと。

 胴・棹,およびフレットはすべて紫檀製
 表裏は桐の薄板
 胴径:一尺七分(324ミリ)厚:一寸五分(45)
 フレットは最大のが二寸二分(66),短いものが一寸六分(50)
 糸倉長:四寸(120),棹長:(100)
 テールピースやコウモリの頭飾りの大きさは図を見て比較判断せられたし。

 といったところでしょうか。
 明治のころの唐物月琴と比較しても,胴は小さく棹もかなり短めです。
 糸巻がやたらと細い,トップナット(山口)がない。棹上のフレットもなにやらずいぶん下方に描かれてるなど,写本ということを考えても正確な図とは申せませんが,まあ楽器としてのだいたいの特徴は捉えられているかと。蓮頭の下,糸倉の先端がやたらに長く描かれてますが,同様の作例がないでもないので,ここはかならず誇張とはいえませんね。

 前にもちょっと書いたことがあるんですが,こういう円形の胴体に短い棹のついた,いまわたしたちが「月琴」と呼んでるところの楽器の類が,日本ではじめて記録されたのは,おそらく宝永7(1710)の『琉球聘使記』(荻生徂徠)の中で,琉球からの使節が持ってきた楽器のひとつとしてのもの。(ただしそれが「月琴」であるとは書かれていない-参考 「月琴の起源について」(7-御座楽の月琴)

 琉球の使節の記録には,宝暦2年(1753)以降,「月琴」の名がたびたび出てきますが,これら琉球から招来された同じ名前の楽器には,台湾月琴のように棹の長いものも含まれていたようで,すべてがかならずしも,今一般的な「月琴」と同類であったかは不明です。そうした楽器のひとつ,いま徳川美術館に残っている「月琴(イヤウキン)」が献上されたのが,これよりちょっと後の寛政年間,1700年代の末ごろですね。


 のち,日本の月琴のスタイルに大きな影響を与える楽器を作った福州の楽器舗・「天華斎」の開店が嘉慶6年(1801)のこと。

 遠山荷塘が長崎の木匠に月琴を作らせたのが文政7年(1824)と言われています。その前にも同じように輸入品の楽器を手本に作られたものはあったでしょうが,国産月琴の場合,記録としてさかのぼれるのはだいたいこのあたり。

 瀧澤馬琴の耽奇会に「清月琴」が出品されたのがその翌年,文政8年(1825)の11月。『耽奇漫録』には,木の葉型のテールピースをつけ,紅葉の模様が散らされた楽器が載っていますが,意匠からすると,これなんかは本当の輸入品なのか,それとも日本で作られた倣製月琴を好事家が「つかまされた」モノなのか少し疑問アリです。

 『崎寓漫録』の作者がいつごろ長崎に漫遊していたのかは正確には分かりませんが,『武江年表』が「近頃月琴を弾すさぶもの多し」と記す江戸期のブームの頂点が1840年代前半,この楽器が江戸などではまだ少し珍しいものであったころと考えますと,「月琴図」の楽器もこれらとほぼ同時期,1820年代から30年代前半ごろのものと考えるあたりが妥当でしょうか。


 さて,間にかなり余計な事も書いちゃいましたが。

 『崎寓漫録』の月琴図は2枚ありまして,1枚目には上に引いたような楽器の全体図。もう一枚には蓮頭と半月と撥(ばち),そして「響き線」の拡大図が描かれています。

 線自体の材質が何なのか,根元のところがどうなってたのか,またこれがどういう具合に仕込まれていたのかなど,詳細は書かれてませんが,線自体の構造はけっこうハッキリ描かれていますね。棹孔から覗き見たものか,あるいは楽器が壊れていて,内部が見られる状態だったのか----ていうかコレ。こないだ直した58号など,太清堂の楽器に多く入っているのと同じものですよね!
 直線と先端が螺旋になった2本の線を組み合わせたこの響き線は,サイズも可動域も小さいのですが,効きはよく線鳴りもほとんど起きない,かなり進歩的な構造です。このタイプの響き線がほかの作者の楽器に入っているのを見たことがないので,庵主はずっとこれを彼オリジナルの独創的な構造だと思ってましたが,まさかこんなところでその類例が見られるとは……まさかこの『崎寓漫録』の楽器は太清堂の作?

 いやいや,楽器の状態や材質から言って,彼の楽器はどう見つくろっても明治の中ごろに作られたシロモノです。
 数もかなり残ってますし,天保年間じゃいくらなんでもちょっと古すぎますね。

 メイン楽器である月琴に入っていたためか,日本の職人さんたちは清楽器といえば琵琶にも弦子にも,あまつさえお箏を縮めたようなジャパニーズ・ダルシマー「洋琴」にも入れまくったのですが,この「響き線」というのは中国楽器でも月琴ぐらいにしか入っていない,けっこう珍しい構造なのです。しかし,中国の楽器関係の書物ではなぜか,これの起源や来歴について詳しく論じたものをいまだに見かけたことがありません。

 徂徠先生の見た琉球の「月琴」には響き線が入っていたようなのですが,耽奇会の「清月琴」は不明。天保14年序の『筠庭雑考』(喜多村信節)巻2の図解には 「月琴は槽内に鉄を薄く細長くしたるを磁石の針の如く宙にありて動くやうにしたる物あり。是を "響膽" と名づく。」 とありますので,響き線については知ってたようですが,図にある楽器は,棹なかごが胴を貫通して先が尻につき出ているタイプなので,響き線の入っていないタイプの可能性もあります。
 実際に入っているのはだいたい,ふつうの細いハリガネに軽く焼きを入れた鋼線なんですが,うちの13号(文久3年 西久保石村作)の響き線などは,喜多村信節の言う「鉄を薄く細長くしたる」に近い感じで,ハリガネではなく板金を細く切ったものでした----でもまあ「ふつうのハリガネ」でなかった例はそのくらいで。

 天華斎などの唐物月琴の,肩口から胴を半周する長い弧線が,国産月琴のなかで90度横向きになったり,もっと単純な直線になったりという過程は,いままで修理してきた楽器の観察などからもだいたい想像がついたのですが,太清堂のこの響き線の構造だけは,ほかの類例が見つからなかったので,どこから思いついたものなのか,という疑問はずっとありました。
 今回の発見で,作者がこの『崎寓漫録』を見たのでなければ,この本に録されたのと同じ構造の古い唐物月琴をお手本にしていたか。あるいはこの楽器自体が倣製月琴だったとすれば,これを作った長崎あたりの木匠と同じ系統の作家さんだった,という可能性も考えられますか----発見はあったものの,なにやら謎は解決したわけではなく,かえって深まった,という気もしますね(w)

(つづく)


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