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月琴60号 マルコメX

G060_02.txt
斗酒庵いろいろみろり の巻2018.6~ 月琴60号 (2)

STEP2 覚悟の刻(とき)


 さてでは月琴60号,まいります。

 ハジメテの方には不案内でしょうから解説しときますと----庵主は自腹を切って買い入れた楽器には通しで番号を付けております。つまりはこれが,自分でお金を出して買った60面めの楽器ということになります。

 ----ああ,いえ。

 といっても今現在,庵主の部屋の中に月琴が60面も唸ってるとかいうわけではありませんからね。(w)庵主が欲しいのは主にデータなので,直した楽器のほとんどは人に譲っちゃってます。

 買い入れたのは夏前で,ちょうど去年暮れからの太清堂ラッシュの終わったころ。ほぼ同時期に買い入れた61号と,依頼修理の柏遊堂パラジャーノフの修理を先行させました。これを後回しにしたのは……そうですね,なんかイヤな予感がしたから……としか。(www)

 棹が抜けない,フレットがやたら低い,半月がきっちり半円形。そのほかにも,糸倉のデザインだったり,左右のニラミの意匠だったり,細部あちこちから,なにやらびみょーにヤバげなニオイ----シロウトしゅう----が漂っております。

 ただ木の仕事から見て,この楽器を作ったヒトは,そちら方面の意味ではシロウトではないものと考えられます。各部表面の処理,胴材の組みかたや各部の接着も精確で手熟れてますし……もしかすると楽器職人ではあったかもしれません。

 あと,出品地が浜松でしたしね。

 しかしこの人,たとえ楽器職であったとしても,おそらく「月琴」という楽器については,それほど詳しくない。

 実物を見たこともあり,響き線の音がマトモなことから,いちおうの内部構造も知っているようですが「月琴」という楽器をイチから作るのはこれがハジメテとか,流行ってるから試しに一丁作ってみた,とかいう程度の作品な気がします。
 ですので,全体としてはいちおう月琴の形になってますし,楽器として使用された痕跡もしっかり残ってはいるのですが。細かに見てゆくと「月琴」の正則からハズれたところがあちこちにあるんですね----棹指部が胴水平面と面一,棹と胴の接合部にはっきりとした段差があること,フレットの頂点が切り立った形になっていること。また,左右のニラミの彫りが量産を目睹していないものになっているあたりもポイントでしょうか。
 世の中ズブのシロウトの仕業より,中途半端なプロの仕事がいちばんコワい……(うう…ブーメランが!ブーメランがぁッ!)さて,これを修理するとなると,その上にどのようなシレンが待ち受けておるものか。
 なかなかにカクゴが要りましたもので,まま過ぐること数ヶ月を経てしまいました。


 外がわからの観察・計測は夏前に済ませてあります。
 フィールドノートも内部構造に関する部分を除き完成していますので。

 まずは内部構造を確認しましょう。

 現状,棹がビクともしません。
 べったりと胴体に接着してしまっているわけでもないようなのですが。ひっぱろうがネジろうが,寸厘も動かないのですね。棹の取付位置や角度も修正しなきゃですし,まずはこれがハズれてくれんと,以降の作業がやりにくい。
 この原因を見つけるためにも,まず内部がいったいどういうことになっているのか調べないと,どうにもなりません。

 表裏板どちらにもハガレ部分がありますが,いつもどおり裏板からハガしていきましょうか----あそれ,ベリベリっとな!
 けっこうカンタンにハガれました。
 ----で,イキナリ目に飛び込んできたのがコレです!

 棹茎(なかご)が……丸い。

 さすがの庵主もこれにはビックリ。
 もちろん絶対そうだと決まっているわけではないんですが,月琴の棹なかごは四角いのがふつう。
 短かったり長かったり,薄かったりぶ厚かったり,継ぎの方法が違ってたりはするものの,月琴の棹茎はまあまず四角いものだと思って間違いありません。
 現代中国月琴などには三味線なんかと同じように,胴を貫いたなかごのお尻のところが丸棒状になっているものもないではありませんが。そういうものでも胴との接合部,棹口のところは四角くです。
 しかしながらコレは……棹口も内桁もまン丸,上から下まで丸棒ですね。しかも見る限り継いでいる箇所はない。棹本体といっしょに削り出された一木造りのようです。

 内桁は1枚。
 こないだの太清堂ぽんぽこほどではありませんが,胴の比較的上のほうに配置されています。材はよく見る針葉樹ではなくクリあたりかと。
 中央に丸い棹茎の先端がささっており,その左右に幅8センチ高さ1センチほどの音孔があけてあります。音孔は受け孔と同じサイズの孔を左右に穿ち,間を切りぬいたものですが,加工は丁寧で,加工後の表面処理もきちんとしてあるようです。

 響き線は太めの真鍮線。 棹口のすぐ横に基部があり,左の音孔をくぐり弧を描いて楽器下部に伸びる----ちょっと短めですが古い唐物月琴と同じ形式になっています。
 線の大部分は金色に輝いてますが,付け根のあたりはサビに覆われてミドリ色になってますね。
 固定は短いクギを2本,楽器の表裏方向から基部に刺して留めているようです。

 あと,事前の調査で予想はされていたのですが,庵主の前に何人か修理者がいるようですね。
 表裏板のウラ側と胴接合部のところ,あと左がわの胴材の割れめのあたりが板切れや木片で補修されているのですが,そうした部分を中心に,茶色く変色したニカワが,あちこちにハミ出てます。
 オリジナルの接着と思われる部分は,こんな色になってませんので,この濃い色のニカワを使ったヌシが前修理者のようです。
 補強材の角が少し焦げてるのは,ニカワを塗ったところに瞬間的に接着するため,木片を炙ったのだと思います。また,月琴の板の修理でこんなふうなパッチどめは珍しいですね,ギターとかバイオリンの修理ではよく見る工法なので,そちらの経験はある人なのかもしれません。ただあまり上手ではなさそうで,とにかくハガれてるとこをへっつけとこう,みたいな感じです。使われてる木片…何でしょうか?一部の木片には文字が書いてあるみたいです。けっこう細かそうな字ですね。
 見栄えのほうにさほど気を遣ってる感がないので,古物屋のやっつけ修理ではありませんね。自分で使うために直した,って感じです。

 内部構造をフィールドノートに書きこみ。
 さていよいよ棹を抜きましょう!
 裏板を剥いだら棹茎が少しだけ動くようになり,とりあえず接着もされてはいないようなので,この丸いなかごの尻を木槌で叩いて抜き取ります。

 かなりガッチリ噛んでしまってます。

 なかなか抜けてくれません----壊れるのカクゴでガンガンやります。


 もともと各部の接着が甘めなので,あちこちバラけるのは想定済み!----それガンゴラガン!!
 ちょっと時間はかかりましたが,なんとか抜けました。

 棹茎の棹口と内桁の受け孔にあたる部分には,前修理者によってニカワが塗られてたみたいですが。はずれなかったのは棹茎と受け孔の工作の精度が良かったからで,この塗られたニカワのせいではありません。
 棹茎と孔の噛合せをあまりにきっちりとしちゃったものですから,そこに塗られたニカワはほとんど孔の中に入らず,孔の入口のところでこそげて流れ,棹基部の内がわ----丸い棹茎の周囲,ちょっと深めにエグられてました----のところで,胴材にもくっつかず,無害なカタマリになってしまっていました。


 棹口と内桁基部,そして音孔を貫くために穿たれた左右端の丸い孔は,ボール盤であけたもののようです。どれも正確に同じサイズで加工も緻密,孔の内壁はツヤツヤで,手工具の手揉錐やツボギリなどの加工痕とは違ってます。もっと高速で精確な機械加工の痕跡ですね。材に対して強力過ぎたのか,一部の孔では内壁に軽く焦げがついてるようです。

 あと,胴材がバラけたところで気がついたのですが,内桁と胴材の接合方法もちょっと変わってますね。
 胴材にV字の溝を切ってそこにハメこむ方式。
 ほかでは見たことがありませんが,内壁にただ接着するのより丈夫でしょうし,きちんとした凹型の溝を切るよりはずっと簡単ですね----これは一度試してみたい。

 とりあえず棹は抜け,第一関門はクリア。
 といったあたりで,次号へ。


(つづく)


改訂版・斗酒庵流月琴ピック製作記

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斗酒庵流月琴ピック製作記最新版! 改訂版・斗酒庵流月琴ピック製作記

STEP0 「圧力鍋あれ」と主人はおっしゃられた の巻

 製作法のより詳しい記事は こちら をご覧ください!

ああ!-----
ブタのナンコツが………牛スジが……トロットロにっ!トロトロにッ!!!

 ----というわけで,次は角煮だ。斗酒庵主人です。

 今季の製作では,買ったばかりの圧力鍋(中古)が大活躍いたしました。
 材料や製作法の概要は,前回とほぼ同じですね。

 まずはペットショップで買ってきた牛のヒヅメ(ナチュラルタイプ,スモークしてないもの)を二晩ほど水に漬けて,糸鋸で3つ(軸側壁・蹄側・蹄底)に切り分けます。


 続く「蒸す」の工程。
 水に漬けただけだと素材が硬く,その後の作業がしやすいように平らにするにも限界があったため,前回の製作から導入したものですが。
 これまでは普通のお鍋で数時間かけてやっていたところ。
 こちらだと炊き時間蒸らし時間含めて小一時間ほど!……圧力鍋,おそろしい子。

 従来の蒸しですと,板が薄くても厚くても,どんなに長く炊いても蒸気が通るのは途中までで,板の「芯」の部分まで蒸しがかかることはありませんでしたが,今回は圧力がかかるまで20分ほど,シュンシュン言ってから30分ほど炊いたら,薄いものなどふにゃっふにゃのクタックタになりました。
 1時間も炊けば,あんがいお醤油かけて食べられる(w)くらいになるかもしれませんね。


 火熨し>乾燥>

 圧力鍋のおかげで,芯に近いところまで柔らかくなってます。このためこの「火熨し」でクランプをかけて潰す時も割れが入らず,表面が平らになるのはもちろん,最初から安心してより強い圧をかけられます。これで適度な熱を与えれば,従来より繊維ががっちりと癒着した,密度の高い,より均一で強固な素材を作ることができるかと。

 欠点としては,素材に蒸気が芯まで通ってしまっているぶん,材料の含水率が高いようで。
 その後の乾燥での変形が,前よりもやや顕著に出ることでしょうか。

 1週間ほどの乾燥期間のあいだに,修整のための焼き直しが数度必要なものもありましたが,はじめの焼きで前より圧縮され,密度が高くなっているためか,火が強すぎないように注意している限り,多少焦げても被害はごく表層で止まり,従来のように芯までモロくなって使えなくなるようなものは,ほとんどありませんでした。


 切り分け>1次整形

 カタいです。
 従来の材料よりカタめですね。
 でも唐木のようなモロい硬さではなく,中身のぎゅっと詰まったメイプル材とかトチ材のような,しなやかさのある硬さです。

 素材の整形のため焼き直ししたものが多かったので,表面に焦げがついちゃったものが多かったのですが,上にも書いたとおり焦げが深く入ってしまっているものは少なく,ごく表層だけなので,食べ物の殻でもはずすつもりで,オレンジ色の削りかすが出なくなるとこまで削ります。
 「焦げた部分」はカタいですがモロく,これが残っているとヒビ割れや折れの原因となります----長持ちしなくなっちゃうんですね。
 ただその焦げの部分の表面がカタさまたハンパないため,せっかく乾燥させたものですが,10分ほど水につけてからじゃないとうまく削れません。


 油焼き>2次整形(仕上げ)

 ここで板にもう一度「焼き」を入れて,ピックにしっかりした「芯」を作ります。
 1次整形で中心部分がより圧縮されるように,表裏の中心部分が少し盛り上がってるように削っておくんですね。(前回の記事に図説アリ)
 こうして整形した「素体」を亜麻仁油にどぷんと漬けて引き出し,鉄板にはさんで焼き上げます。

 10分ほど片面を焼いてから,板が熱いうちに鉄板ごとひっくりかえしてクランプをつけなおし,新たに締め上げて,3分ほどおいてから反対の面を焼くのですが,ここでの潰れ具合も従来より大きいですね。

 2次整形に変更点はありません。

 簪などで,ベッコウ製のものと馬・牛のヒヅメで作ったものの見分けかたは,灯りに向けてよく見ると,繊維の筋が見えるかどうか----というのが古物屋の小僧として教えてもらった知識の一つなんですが……ヤバイですね。
 「蹄底」(ヒヅメの靴底にあたる部分)からの板は,もともと繊維が長く縦方向に入っていることと,ほかの部分よりやや柔らかいので,この筋が見分けにくいのが多かったんですが,今回の場合「蹄側」(甲にあたる部分,いちばん大きい)からとったのでもモノによってはこの繊維の筋がほとんど見えません。

 「蹄底」の部分の板には,繊維の方向と焼きの関係で「変彩」(光の方向によって反射が変わる)が出ちゃいますので,筋が見えなくても誤魔化せませんが,「蹄側」の板だとそれもあまりないため,ほとんど分かりません。5分,10分見てると,焼きの甘い部分や端っこのほうにうすーく残ってるのが見えてくるんですが,パッと見だとまず気づかないんじゃないかな?

 芯まで柔らかくできて,素体段階までの整形と圧縮はより容易になりましたが,やはり材料の含水率の問題で,完成後の変形もややしやすいようです。まあ「とくにヒドい」というほどではありませんし,2度目の焼きをよりじっくり行うことと,油焼きの後の乾燥時に修整することで,この点はあるていど予防可能な様子。
 次回の製作では,そのあたりをまた追求してみましょう。

  過去・現在の,すべての職人。そして圧力鍋さまに,感謝。

 付記:ちなみに庵主はピックをこういうふうに持っています。(画像クリックで別窓拡大)

 まあ,トレモロ特化の演奏をするための握りなんで,ふつうにピンカラ弾くだけなら,エンピツ握りでかまいませんよ。(w)

 力を入れてるのは親指ですね。
 動かすのは中指
 親指と人差指の2本は支えてるだけで,ほとんど動かしません。
 人差し指を支点にして,中指の腹でピックを押し上げ,往復運動させます。

明笛44号 「招月園」刻銘

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斗酒庵 「招月園」の明笛を調べる の巻明笛について(21) 明笛44号 「招月園」刻銘
STEP1 刻まれた詞(コトバ)

 ひさびさに笛を落札しました。
 前回の記事との間に4本ぐらい開いてるんですが気にしないでください。(w)

 今回入手したのは,漢詩の彫ってある古いタイプの明笛。
 清楽に使われた長ーい笛ですね。
 管頭2行に書かれた文字は

 茅 屋 何 人 共 住 石 林 似 我 曾 遊 白 雲 只
 在 半 嶺 青 山 誰 到 上 頭 亥 極 月 〓 〓

 明・藍仁「題青山白雲図」ですね。

 茆 屋 何 人 共 住,石 林 似 我 曾 遊。
 白 雲 只 在 半 嶺,青 山 誰 到 上 頭。

 茆屋 何人か共に住まむ,石林は似たり我が曾て遊ぶに。
 白雲只だ半嶺に在す,青山誰が上頭に到らむ。

 (絵の中の)あの田舎家には,どんな人々が住んでいるのだろう,
  そそりたつあの岩山は,まるでむかし旅したあの地のようではないか。
  山のなかばは白い雲に隠れている,あそこで
  あの青い頂をあおぎみているのは誰なんだろう

 題からするに,実際の景色ではなく「青山白雲図」という絵を見て詠んだ詩なわけですね。
 本では「茅」が「茆」になってますが,意味はおんなじ。
 「茆屋」であばらや,質素な田舎家を指します。

 漢詩の授業ではまず教わらない「六言詩」,しかも李白とか杜甫の詩じゃないあたりが,いかにも本意気の「清楽家」の笛----うん,このくらいイヤミじゃないと(www)----っぽいです。

 「極月」は十二月のこと。「亥年の十二月」,この笛の完成年記でしょうか。
 これに続く歌口の左下にある二文字(右画像)が今のところ解読不能です。「暖済」にも見えますが……さて。



STEP2 「招月園」について

 漢詩のとなり,左下に三文字あるのが,この笛を購入した理由----「招月園」の銘ですね。

 手もとの資料でこの名前が清楽家としてはじめて現れるのは,明治12年の『西京人物志』。
 「月琴」の項目に

  上京区第三十組麩屋町御池南
   招月園女史

 翌明治13年の『大日本現在名誉諸大家獨案内』では

 ○明清合奏
  麩や丁姉小路 招月庵

と,「招月"庵"」になってます。「招月庵」だと歌だか俳句だかの名跡で同じ名前の人がいますが,調べた限りでは関係はなさそうです。住所も同じ「麩屋町」ながら,その後がちょっと違ってますが「姉小路」は「御池通りの南がわ」にありますんで,同じ場所を指しているのだと思います。
 続いて14年,遠藤茂平の『京都名所案内図会』にも

 ふや丁
  御池南  招月園女史
 と,出てきます。
 3年連続してなにかしらに取り上げられてるとこからしても,この明治10年代に名を売ったヒトのようですね。
 最初の資料で「上京区第三十組」となってましたから,中白山町,いま旅館が何軒かあるあたりですかねえ。

 福田恭子「山口巌の生涯」によれば,お箏の山口巌氏の京都盲唖院時代の資料中に「"音曲研究会" 京都府盲唖院 三月廿六日 於 東山知恩院内午前正六時始メ午後五時終リ…」(『検査一件書』 明治18年3月)と「音曲研究会」により演奏会が行われたという記事があり,その参加者として----

 ○明清楽
 水滸伝武鮮花,二宗不諗母流水
  招月園 社中

と「招月園」の名が出てくるようです。「社中」とあるからには清楽のお教室として参加したということでしょう。「二宗」は「仁宗」でしょうね。この「武鮮花」「仁宗不諗母」といった曲は芝居仕立ての大曲なので,あまり月琴独奏という形式では演奏されない曲です。(「仁宗不諗母」がどういう曲だったかにつきましては今夏の復元記事をどうぞ!)
 どっちかというと大勢でいろんな楽器を持ち寄ってワイワイやる手合いですね。
 明治25年の『音楽雑誌』20号,大阪東区の「備一亭」で行われた平井連山(初代)の七回忌の演奏会についての記事中にも,この「招月園社中」が協力した旨が見えます。これも当時の清楽関係としてはかなり規模の大きな催しだったようですから,それに手助けを頼めるくらいの規模で,あるていどの人数を教授していただろうということがうかがい知れます。

 しかしながら,庵主も現状文献から追えるのはこのくらいなもので。

 そもそも「招月園」というのは「○○亭」とか「××庵」と言ったのと同じ,自分の家や庭や部屋などの名前を以て,自分の名前に代える----いわゆる「室号(しつごう)」という類。庵主の「斗酒庵」てのもそうですが,ペンネーム・芸名,雅号てのの一つです。
 つまりこの人,現状本名も分からないわけですね。
 ただ最近,大正13年に出された『日本音楽の聴き方』(那智俊宣)という本の中に,こんな一節を発見しました。

 …この期の初めから末期にかけて流行を極めましたのは,文政年間長崎に伝来した支那近代楽の「明清楽」でありました。南宗画及び煎茶の普及と共に。支那近代趣味の人に迎へられ,其雅筵にはこれが演奏を絶たない有様でありました。明治の初年から,二十年頃までを極盛期といたしまして,日清戦役に至って一時に音を絶ちました。長崎派と渓庵派の二派ありまして,長崎派では久留米の人仙台の箏曲の山下検校,渓庵には東京に長原梅園,春田母子,京都に岡崎招月園女史など覇を称しました。管絃楽を重とし,月琴,阮咸,提琴,胡琴,明笛,太鼓等はその楽器の重なるものであります。(「七、諸樂交替期」より)

 あー,細かいことを先に言っときますと。長原梅園と春田は「渓庵派」ではありませんね……たぶんこれは東京を中心に活躍した長原梅園の一派を,本家の連山派が「大阪派」と呼ばれるのに対し「東京派」と呼ぶこともあったところからきた混乱でしょう。鏑木渓菴が興し富田渓蓮斎が継いだ「渓庵派」も,活動の中心を東京としていたことから「東京派」と呼ばれることもありましたが,伝承の系統が違っています。
 また長崎派の代表にお箏の山下検校入れちゃうのか!ってあたりも文句がないでもないんですが(w),山下検校が清楽にも関わってたのはまあ事実。長崎派ってのもふつうだと小曾根乾堂・三宅瑞蓮とか東京なら奥山の松本瑞蘭あたりでしょうねえ。

 そりゃまともかく----ここには「岡崎招月園女史」と書かれています。清楽家で「京都に」っていうから,ここまで追ってきた「招月園」のことで間違いないでしょう。

 もっとも,京都ですからもしかすると「岡崎」は左京区の「岡崎」なのかもしれないんですが(心配性)----まあほかの人名がその形式になってませんので,ここは素直に名字と受け取って良いでしょう。
 「招月園」の名字が「岡崎」だというのは,現在までの所この記事以外に見たことがありません。

 さてこの文の筆者「那智俊宣」は鈴木鼓村の別号。
 明治~昭和にかけて活躍したお箏の人で京極流の創始者。北原白秋などのやっていた「パンの会」のメンバーでもあり,交遊は広く趣味も多彩にして多才の人。大正時代にはこの名前で,京都で日本画家としても活躍していたそうです。
 明治8年,宮城県の生まれなので,招月園の活躍時には直接的な交流はなかったと思われますが,明治30年代以降は京都がその活動の中心であったので,そこで手に入れた情報だったのか…または,この人の祖母・母ともに京都の人らしいので,あるいはそのあたりの伝手からの情報だったのかもしれません。
 もっとも,ほぼ独学で『日本音楽の話』なんていう大著を書きあげちゃうくらい音楽全般に底知れぬ造詣を有していた人ですので,たんに「知っていた」だけなのかもしれませんが。


STEP3 笛の状態と修理

 さて,今回入手した笛に戻りましょうか。
 招月園女史本人の作ったものか,社中で作らせたものに銘を刻んだだけか,そのあたりはまあ分かりませんが。

 庵主の刻文の読みが合ってたとして「亥年」の作だとすると明治では8(1875),20(1887),44(1911)。招月園の活躍時期や笛の状態からすると真ん中の,明治20年代の作かなあ。

 以前音大で見た伊福部先生のところの招月園の清笛は,色の薄い地に変り斑をちらばせたキレイなものでしたが,こちらは全体が茶色。
 煤竹っぽい色ですが,管尻のところを見る限り竹の肉の色や感触は違いますので染めでしょう。
 お飾りをはずした状態で管長は543。
 明治~大正の頃に売られていた標準的な明笛で長さはだいたい45センチくらいなので,10センチ近くも長いですね。

 管頭のお飾りがなくなったか,お飾りの接合部分が破損したかしたらしく。凸になった部分を切りとり,内がわを削って少しラッパ状に加工してあります。
 まあこのタイプの明笛は,歌口から管頭までの部分が長いので,飾りがなくてもこれで格好はつくだろう,ということでしょうか。
 管尻のお飾りは残ってますが,虫やらネズやらにやられ,かなりボロボロな状態です。素材は牛の角ですね。
 管径は管頭で外22,管尻で外20,内11.5。
 歌口は12x8,指孔はそれよりわずかに小さく10x8ていどの棗型。響き孔と裏孔はφ6の円形。

 歌口から各孔までの寸法は以下の通り----

歌口響孔調子孔1調子孔2裏孔
73137164191218247274332356312

 明笛の場合,歌口の中心から裏孔までが,弦楽器で言うところの有効弦長にあたりますね。反射壁(管頭の詰め物)は歌口の上端から4ミリほど下がったところとなっています。
 すでに述べたよう,管頭のお飾りはなくなっており,管尻のお飾りもボロボロですが,そのほかの損傷個所は以下----

 歌口のあたりの塗りが傷んでいるのは,使い込まれた笛としてはまああたりまえの故障なのですが,反射壁手前の塗りの剥離は,状態から見て,前の所有者が反射壁の位置を後で調整したのではないかと思われます。

 現状で息を吹きこめば音が出る状態,しかも管全体がビビるくらい共鳴してますんで,この前所有者によるピッチの調整はバッチリGJ。製作当初はもうすこし歌口がわというか,手前に位置していたようですね。
 周辺の内壁,そして歌口と響孔の中間部位の管背がわにも数箇所の剥離が見られます。これらも使用による劣化というよりは,反射壁調整の巻き添えを喰らったものだと思われます。そのうえ,塗りが剥離した状態でそのまま使っていたようで,露出していた竹の地が,ヨゴレで真っ黒になっていましたよ。

 あとは管尻がわ指孔の第1孔周辺,塗りも竹の表層部も剥がれ,竹肉の部分が露出して表面がガサガサになっています。指孔の縁もちょっとボサボサになってますし,孔の壁の塗りも傷んでますね。竹の表層ってのはふつうけっこう丈夫なものなんですが……これは削れたとかでなくて,管表から管背にかけて,液体が滴ったような痕跡が見られますね。
 単なる水濡れではありません。
 なにか薄い酸とかアルカリとかで,時間をかけて浸食,溶かされたみたいな感じです。
 管内の塗りには損傷が及んでおらず,指孔も押さえた時の感触が悪いだけで使用上の問題はさほどなさそうですが,軟らかい竹肉の部分が出てしまっていますし,表面がこんなだと何かにひっかかって傷んでしまいそうですので,少々表面を固めてやらなければなりますまい。

 音が出せる----つまりは楽器として使用可能なわけで,この時代に作られた古楽器としては保存状態がかなりよろしい。塗りの補修と傷んで竹の肉の出てる第1孔周辺を固めれば,ふつうに使える状態に戻るでしょう。

 正直音階を調べるだけなら,管頭と管尻のお飾りは楽器としては無くてもまあ構わないんですが。管頭のお飾りについては,演奏時に長い管体のバランスをとるカウンターウェイトとしての機能も持ってますんで,「笛として使う」なら作らなきゃなりますまい。

 管尻のほうはボロボロながら残っているものの,管頭のお飾りに関しては現物が残ってないので,どんなものだったか分かりません。カタチよりは重さを考え,だいたいの大きさを決めて作りました。
 今回の材料は,いつも庵主が月琴の糸巻作るのに使ってる百均のめん棒----ふつうなら旋盤で作るような部品ですが,持ってナイもので,根性と手ヤスリで削り出します(w)
 管尻のほうはだいたいのカタチを出した後,管尻方向から中心に孔を通してリーマーでグリグリして内がわをラッパ状に。管の接続部をさしこむほうは,彫刻刀で深さ1センチほどの凹に彫り込みました。

 もともとの塗りがかなりしっかりしていたようなので,内塗りは基本的に管内や指孔の縁の剥離箇所の補修と保護塗りていどで済みました。外がわは第1孔周辺の損傷個所に塗料を染ませて毛羽立った表面を固めたほかは,かるく全体を拭いたていどですね。
 一週間ほど硬化養生させてから磨き,公園で試奏してきました。

 口 ●●●●●●  合/六  4Bb+35~4B-42
 口 ●●●●●○  四/五  5C+25
 口 ●●●●○○  乙  5D-12
 口 ●●●○●○  上  5Eb+15
 口 ●●○○●○  尺  5F+20
 口 ●○○○●○  工  5G-10
 口 ○●●○●○  凡  5A-25
 (口は歌口,●閉鎖,○開放)

 全開放は5A+30
 呂音での最高音は 口 ○●●●●● で,全閉鎖のほぼオクターブ上,5Bb が出ました。

 西洋音階にあてはめると,筒音がかなりビミョーな感じではありますが,「"合" がBbからB」というのは文献通りの当時の音。かなり正確な清楽音階になっているのではないかと思います。
 修理前にも思いましたが,非常に吹きやすいですね。研究用に購入したものですが,ふだん使いの楽器としても使えそうです。
 ほぼ同じ大きさの31号とくらべても,音の安定がとてもよろしい。
 呂音から甲音への切り替えもスムーズ。
 笛へたっぴな庵主でも,苦労せず甲音が出せます。
 さすがほんとうの清楽家が作ったマジ笛,ちゃんと分かって作ってる,って感じですか。

 楽器として庵主にはもったいないくらいの上等品ですんで,こりゃもう少し練習しなきゃなあ。

(おわり)

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