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菊芳の月琴 (1)

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斗酒庵 よしのすけとまた遭う の巻2022.6~ 菊芳の月琴 (1)

STEP1 君の名は----


 さて,ウマ娘観ながらウサ琴をせっせこ作ってたら,依頼修理の楽器がやってまいりました。

 前回の天和斎まで,このところ唐物が続きましたが,今回は国産月琴ですね。
 ただしこれは明治の国産月琴の中では古いほうのタイプ。唐物の完コピから脱却し,日本の職人らしい構造になってゆくその途上。まだ倣製楽器の影響が拭いきれないころの楽器ですね。

 作者名を書いたラベルも墨書もありませんが,庵主には分かります----これは日本橋区馬喰町四丁目,「菊芳」こと福島芳之助の楽器ですね。
 ああ,もちろん存在Xによるお告げがあったとか,天啓がひらめいたみたいな理由ではないので安心してください。(笑)

 では外面の観察からまいりましょうか。
 全長は645(除蓮頭),胴は横355,縦352。ふむ----わずかですが横方向にふくらんだカタチになってますね。胴厚は36~7,面板のふちの加工の関係なんでこのくらいは誤差範囲。板自体の厚さは表裏ともに4.5ミリほどのようです。どっしりした感のある,やや厚めの胴体です。
 山口(トップナット)下縁から半月(テールピース)上縁までの寸法,有効弦長は420。唐物が400~410くらいなことを考えると長めですよね。このあたりは関東の作家の月琴の基準に倣っているといえましょう。

 寸法はひとまず置いといて。まず目を引くのが棹の糸倉のつけねのところ,この背面部分を庵主は 「うなじ」 と呼んでますが,ここが平ら----いわゆる「絶壁」になってるところですかね。

 国産月琴の多くはここを曲面とし,糸倉と棹はなだらかにつながれでますが,彼らがお手本にしたところの唐物月琴ではだいたいコレと同じように,糸倉がわがスパっと平らな「絶壁」に加工されています。見た目上,国産月琴のすべらかな曲面構成のほうが,「絶壁」よりも手間がかかってるように見えるんですが,実際に加工してみると,ここをキレイな「絶壁」にするのは意外と難しいのが分かります。
 というのも木取り上,この部分はキレイに均すのが難しい木口の部分になります。植物の導管に対しほぼ垂直に切った面をツルッツルに仕上げるのはけっこう大変なんですよ----そうですね,髪の毛の束をギュッとまとめて,断面を平らに磨こうとするのを想像してみてください。床屋感覚で考えなくても,毛の流れに沿って斜めやなだらかにカットしたほうがラクそうなのは分かりますな。

 うちの長老13号(新選組と同い年)なんかは,国産月琴で古いものであってもうなじはなだらかですし,後で唐物を真似て作ったような楽器もあるため,ここが「絶壁」になっていたからと言って必ずしも古いものとは限りませんが,輸入>倣製>国産という技術の流れはいちおうあるので,国産月琴としては,古い形態のものに準拠した楽器である,と少なくとも言って良いとは思います。

 菊芳の楽器では,明治25年の年記のあるもので,うなじは曲面構成,全体ももっと明治期の関東における国産月琴の標準的な姿となってましたので,今回の楽器のようなものは,それ以前の時代の作である可能性が高いですね。

 今までうちであつかった菊芳の楽器でいうと,10号と26号,16号於兎良と今回の楽器がそれぞれ同じくらいの時代の作と考えられますが,それぞれの工作を思い返してみますと,16号のほうが,比較的意匠や構造に実験的なところが多く,各部の工作・加工にもまだ 手慣れていない感 があるようでしたから,そこらへんからも,今回の楽器は菊芳の月琴として比較的初期の作と考えて良いかと思います。

 うちの「楽器商リスト」などで見る限り,馬喰町「菊芳」の名前が挙がってくるのは明治20年代初頭。第三回内国勧業博覧会では褒賞を獲得してますね。明治10年代初頭の楽器職人ランキングなどにはまだ名前が見えませんが,勧業博でも評価されているし,以降本でたびたび紹介され,また店を継いだ岡戸竹次郎も相当な腕前であったらしいことなども考えると,月琴の製作者に多いポッと出のにわか職人とは思えません。庵主は少なくとも明治10年代なかばには,独立して活躍していたのではないかと考えてます。
 明治25年に26号を作ってるのはすでに書いたとおり,16号と26号の間には,すでにあげた形状のほかにもかなりの技術的な差があるので,間にはそれそこの年数があってもおかしくはない感じですね。流行の盛り上がった明治10年代後半からはじめたとして,明治27年には清楽の流行拡大にストップをかけた日清戦争が勃発してますし,現在分かっている資料から,菊芳・福島芳之助は,明治30年代には引退もしくは死亡し,店も他に譲渡されているようですので,芳之助が月琴を製作していた時期は,最大でも10年ちょっとと言ったところ。

 比較的近所に山形屋雄蔵とか高井柏葉堂の店があり,蓮頭やニラミの意匠に類似などから,彼らとの交流があったことも考えられますので,当初倣製月琴に準拠していた菊芳の月琴は,彼らの影響で,渓派・関東風の形態に変化して行ったんではないかとも想像されます。このようなあたりも総合的に考えると,今回の楽器の製作時期は,明治10年代のドン末から20年代ギリ初頭といったあたりではないかと。

 さて,ちょっと考察が長くなっちゃいましたが,ふたたび観察に戻りましょう。

 唐物月琴だと棹背に深いアールがついてますが,これはほぼまっすぐ。概観ですが,関東の楽器はここがまっすぐなものが多いですね。糸倉はやや曲りが深く,太め。唐物や関西の松派の楽器はこんなものですが,後の関東の楽器ではこの糸倉が不識や柏葉堂のように細く長くなってゆきます。このへん細かく見てゆくと少し入り混じった感じなのが,菊芳の初期作の独自性ですね。
 あとは糸巻の孔。

 太いほうが11ミリ,細いほうが6ミリ径となっています。太いほうの11ミリはふつうですが,唐物だと細いほうも8ミリとかありますからね,先がかなり細くなってます。ちなみにこれ,三味線の糸巻のサイズに近い。
 孔の内壁に少し焦げが残ってますので,焼き棒で焼き広げてるのは間違いない。それ自体はふつうの加工ですが,おそらくこれら初期作のころは,まだ月琴用の道具もそろってないので,この軸孔なども三味線作りの道具を流用して作ってたのではないかと。そうするとやっぱり寸法が,月琴の標準的な糸巻のものよりは細めになっちゃいますね仕方ない。

 ちなみに工房到着時,糸巻は4本ささってましたが,唐木で出来た三本溝のが3本と,明らかに毛色の違うのが1本という組み合わせ。
 材質や工作は黒い三本溝のほうが良いのですが,オリジナルはおそらく1本だけ残ってるほうと思われます。各面の溝が深く,角を丸めたこの手の形状を庵主は 「ミカン溝」 と呼んでいますが,これは唐物月琴の糸巻に倣ったもの。同時期の製作と思われる16号の糸巻もこちらのタイプでしたからね。あと,このころの菊芳の糸巻は,唐木ではなくサクラなどを染めたものだったようです。

 さて,ここまで引っ張っておいてなんですが。
 ラベルや墨書署名といった決定的な証拠ではないものの,この楽器が「福島芳之助」の作であると証明する,現状ほぼ唯一の根拠は,棹なかごに付いてます。これですね----

 今回の楽器のものは,棹の調整か後の補修によって頭とシッポの部分がすこし消えちゃってるようですが,ほぼ同じものが16号の棹なかごの同じあたりにも見えます。

 墨書じゃなくエンピツ書きなんで,ちょっと分かりにくいとこですが。
 途中のヘロヘロの回数と,最後の1画が上にひょいっと跳ね飛んでるあたりはだいたい同じですね。10号の資料は当時の撮影機材の関係もあり確認できませんでしたが,26号では胴板ウラの書き込みにも,同じようなヘロヘロがありました。
 まあそもそも,これが署名的なものなのかいまだ確定できんとこではあるんですが,ほかの作家でよくここらに書かれるシリアル(同じ楽器の部品であることを示す番号)はほかの場所に付いてるんで,それでないことだけは確かですし,初期と後期の楽器のどちらにも見えるので,製作年を記したものでもなさそうです。


(つづく)


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