« 2024年9月 | トップページ | 2024年11月 »

月琴WS@亀戸!2024年11月!!!

20241123.txt
斗酒庵 WS告知 の巻2024年 月琴WS@亀戸!11月!!!


*こくちというもの-月琴WS@亀戸 ろうどうに感謝するWS のお知らせ-*


   起てバンコクのろうどう者。

 2024年,11月の月琴WS@亀戸は,きんろう感謝の日・23日(土)の開催予定です。


 会場は亀戸 EAT CAFE ANZU さん。
 いつものとおり,参加費無料のオーダー制。
 お店のほうに1オーダーお願いいたします。

 お昼さがりのゆるゆる開催。
 美味しい飲み物・ランチのついでに,月琴弾きにどうぞ~。

 参加自由,途中退席自由。
 楽器はいつも何面かよぶんに持っていきますので,手ブラでもお気軽にご参加ください!

 初心者,未経験者だいかんげい。
 「月琴」というものを見てみたい触ってみたい,弾いてみたい方もぜひどうぞ。


 うちは基本,楽器はお触り自由。
 1曲弾けるようになっていってください!
 中国月琴,ギター他の楽器での乱入も可。

 特にやりたい曲などありますればリクエストをどうぞ----楽譜など用意しておきますので。
 もちろん楽器の基本的な取扱いから楽譜の読み方,思わず買っちゃった月琴の修理相談まで,ご要望アラバ何でもお教えしますよ。個別指導・相談事は,早めの時間帯のほうが空いてて Good です。あと修理楽器持込む場合は,事前にご連絡いただけるとサイワイ。

 とくに予約の必要はありませんが,何かあったら中止のこともあるので,シンパイな方はワタシかお店の方にでもお問い合わせください。
  E-MAIL:YRL03232〓nifty.ne.jp(〓をアットマークに!)

 お店には41・49号2面の月琴が預けてあります。いちど月琴というものに触れてみたいかた,弾いてみたいかたで,WSの日だとどうしても来れないかたは,ふだんの日でも,美味しいランチのついでにお触りどうぞ~!


 「65号の修理は…"順調"。」
 佐官:「はぁ?」
 庵主:「"順調",だ。上には "順調",とだけ報告しておけ!…シベリアで凍ったピロシキを食べたくなければな。」

 ----というほどには苦戦してません。メンテと魔改造のため64号ちゃんが帰ってきてます。同時進行中です。



月琴65号 清琴斎初記(2)

G065_02.txt
斗酒庵,春秋を思ふ の巻2024.4~ 月琴65号 (2)

STEP2 むすめさんの若いころの通り名,「月下の美人」だったってよ。

 前回は,長々と作者の人物伝を掘り下げましたが----ああ,そうそう。頼母木源七の楽器工房を継いだ,清琴斎二記・山田縫三郎については,こちらの記事をごらんください。

    「月琴の製作者について(3)」

 さて,では今回の楽器の解説に戻りましょう。

 主要な寸法は以下----

 全長:660(除蓮頭)
 棹長:295( 〃 )
 胴幅:縦355,横357
 胴厚:37
 有効弦長:425(山口欠損のため推測)

 さすが師弟,過去に扱った山田清琴斎の楽器の資料と見比べたら,寸法とかあちこち合致してますね----なに,同じ楽器なんだからあたりまえ? ふッ…昔の国産月琴,ナメたらあかん。何面か扱ったら分かりますよ。(泣)

 この楽器,みんなほぼお金のため,ナリフリ構わず大量生産してるもンですから,材料や工程のコスパ的な関係で工作の差がヒドく,同じメーカー同じヒトの作でも,寸法が平気で5センチくらい違っちゃったりするんです。あ「ミリ」じゃないですよ? 「センチ」ね。

 見てるとね,その理由も……あ~節があったからここで切っちゃったんだな,とか。ああ,端材で無理矢理でっちあげたんでこの寸法かあ----とか,プロの仕事にはあるまじき&「楽器」の工作とすると考えられないような,すぐ分かるようなのが多くて。
 これだけばっちり合致したりすると,庵主的には逆になんかコワくなったりしますが。これは考えてみますと,他のメーカーが部材の整形から組上げまでほぼ家内制手工業の手作業なのに対し,頼母木さん・山田さんのところは,規模は小さくても機械工作を取り入れ,部材を画一的に加工していたからなのでしょう。
 前回引いた伝にもあった 「月琴の高価なるに着眼して是を廉価に売出せし」 ということのできた理由が,まさにコレですね。手の仕事はワンオフのものを作るのには最適ですが,同じものを大量に,しかも安価に作るとなるとやはり機械にはかなわないものです。
 サイズ的なところはほとんど同じ,何らかの近代的な工作機械で加工してる部材の正確さや,接合の緻密さも同じではあるのですが,それでもやはり違いはありますね。

 棹各部のラインや糸倉のアール,飾りや,半月の加工も----初記のほうがやや繊細。
 二記のほうがわずか武骨で,比べるとやはり各部の工作に粗さが目立ちます。


 思うに,頼母木さんのころはまだ,基礎的な加工を機械でやれちゃってるぶん,安価にしても仕上げや装飾に回せる余裕があったんでしょうが,山縫になってからは,流行の加速と生産量の増大で,そのあたりができなくなったんじゃないかと。機械を入れるとヒトは楽になるか,と言えば,そうとも限らないっていう,現代社会の病巣例のひとつでしょうか。(おお,社会派)

 トップナットの山口もフレットも,棹にへっついているものは尽く後補ですね。

 山口っぽい角材表面に溝状の擦痕が残ってますから,実際に使ったかどうかは分からないものの,何らかの糸を張ってみたのは間違いないでしょう。
 工房到着時,糸巻は四本ささってましたが,そのうち二本は三味線の糸巻を改造したものでした。残りの二本は間違いなく月琴のもので,加工から見てたぶんオリジナルで間違いなさそうですね。

 あと糸倉のてっぺんに付いてる,このまあるいお飾りですが。

 コレなんでしょうねえ----まあ鯛なんでしょうけど。初見で思わずゴッコさん(ホテイウオ)を思い浮かべちゃいましたよ。ゴッコ鍋…美味しいんだけどねえ…あのヘドラの幼体みたいな見た目と,さばく時の感触がなんとも……SAN値下がる系なんですよ。(請検索&試食)

 棹材はタモかな?

 指板もなくシンプルな作りですが,弦池(げんち-糸倉の内がわ)のところは天に間木をはさめない彫り貫きになってます。今は薄い色をしてますが,もとはスオウ染がされていたらしく,糸倉の先の方やうなじのあたりに濃い色が少し残ってます。棹裏の褪色具合が,なんかヴァイオリンの使い込まれたのっぽいなあ----とか思いましたが,そういやこの人,ヴァイオリンも作ってたんだっけね。

 延長材はヒノキかスギ…たぶんヒノキでしょう。
 接合部はしっかりしてますね。

 同時代の楽器の中ではやや厚めの胴体,ここも二記と同じです。関東の月琴は,石田不識など鏑木渓菴の自作楽器の工作を受け継いだと思われる作家の影響で,棹が長く,薄めの胴体になってることが多いのですが,そのなかではちょっと異色です。
 月琴のこの胴体側部は,四枚の部材を組み合わせて作られているんですが---すごいですねこの工作精度---木目もわりと合わせてあるみたいで,かなりしっかり見ないと,継ぎ目が見つかりません。

 表板は水がかかるかしたらしく,真ん中あたりを境に,下半分が水ムレで少し薄くなっちゃってますね。また,表裏板とも下部・地の板を主として周縁にハガレや段差の出来ているところが見受けられます。

 胴上のフレットはオリジナルのようです。骨か象牙か分かりませんが,細めでしっかりした作りです,左右の菊のニラミと5・6フレット間の四角いお飾りは,染め木じゃなく,唐木の類で作ってあるみたいですね。前回書いたよう,源七さんは楽器商としてだけではなく,唐木細工師としても都内で「名工」と呼ばれる人だったみたいですから,やや小さめで,比較的シンプルなデザインではあるものの,このへんはきっちり作ってるみたいです。

 半月もたぶん唐木製ですね。細い毛彫りの溝に,薄く削った骨か象牙の板を埋め込んで簡単な象嵌を施してます----じつに繊細な細工ですね。この半月のみ二記の作と大きく寸法が違ってます。といっても差はまあ1センチないくらいですが,初記のほうがやや小ぶり,でも糸孔の間隔は初記のほうが広めなんですね。どちらも楽器のレギュレーション的には問題のない寸法ですが,使用感にかなりの差が出ると思うんで,そのあたりは修理が終わってから,実際に演奏して確かめてみましょう。

 表裏板の数箇所に虫食いが見えます。

 とくに表板中央のと,裏板向かって右がわのが重症なご様子。そのほかにも数箇所,虫食いで弱ってる部分がありそうです。
 被害の目立つのは主に小板の接ぎ目ですが,これが横方向にどれだけ広がっているかによって,修理の方針がぜんぜん違ってゆきますねえ。

 どうか----あんまりヒドいことになってませんようにッ!


(つづく)


月琴65号 清琴斎初記(1)

G065_01.txt
斗酒庵,春秋を思ふ の巻2024.4~ 月琴65号 (1)

STEP1 運河を掘ってお城のお堀を埋めた人の楽器が来たよ。

 ちょー久しぶり の自出し月琴,65号。
 楽器自体は春先に落札してたのですが,今年前半はずっと,ウサ琴EX3の製作や清楽DBのほうに邁進してましたしね,夏の間…というより9月・10月になってもこの暑さ----超エコ動力エアコン「大自然」装備の我家では抗う術もなく,この頃になってようやく調査にまで漕ぎ着けました次第。


 さて,楽器はスマートな国産月琴。

 裏面のラベルから作者は 「清琴斎初記」 と分かっております。
 清琴斎----その作者の楽器は,このブログでも何度となく登場しておりますが,それらはすべて「二記(二代目)」山田縫三郎,山田楽器店の作でありました。
 今回の楽器は「初記」,すなわちその山田縫三郎のお師匠さん。
 「頼母木源七」の作なんですね。

 頼母木源七----音楽関係で調べてゆきますと,その名前は 「国産ヴァイオリンの最初期の製作者」 の一人として出てきます。娘の駒子さんは最初期の日本人ヴァイオリニストで上野の音楽学校で長年その教授を続け,数々の演奏者を育て上げた才媛。その娘婿となった頼母木桂吉は,後に政治家として逓信大臣にまでのぼりつめた人物です。

 源七さん自身の肖像や,詳しい伝記は見つかりませんでしたが,娘さんや婿さん,あとその二人の養子にあたる真六さんもみな一廉の人物なので,そういう家族の伝の中から探っていきますと,『東海三州の人物』(伊東圭一郎 T.3)という本に,源七さんについての言及が見つかりました----この記事,そもそもは娘の駒子さんの紹介記事なんですが……筆者,お父さんのほうにかなり筆が寄っちゃってますねえ。


…翁(*源七)は本県珍物伝中の人物にして,駒子の音楽家と為れるも亦た翁の境遇に負ふ所尠からず。翁は素と浜松の下駄商にて可也の資産家なりしが,或は運河の開鑿を企て,或は城濠の埋立を為し又は新聞を発刊して,家産を蕩尽し,落魄して上京せり。然れども生来,世話好きなる翁は米櫃空虚となるも平気の平左にて書生を養い,下谷の困窮生活時代の如き,妻君の分娩する場所なく已むなく隣家の空家で産落としたるが是れ駒子也。而して翁は其後職業を捜がし,当時流行せる月琴の高価なるに着眼して是を廉価に売出せしかば忽ち繁盛し,幾許もなくヴァイオリン其他音楽一式を大規模に製作する事となり,駒子も自然と音楽に親しむ様になれり。
   (伊東圭一郎『東海三州の人物』「洋楽壇の二才媛」より)

 おぅ…なかなかにトンデモな前半生……有難いことに,月琴を作るようになった経緯もさらりと書かれてますねえ。石田不識や田島真斎みたいに,自身も清楽家だったりした人をのぞけば,まあ,みんなだいたいこういう理由だったんでしょうねえ。流行り物は流行ってる時ならどんなものでも作れば売れます。やっぱりお金,お金はすべてを解決するんです!(w)
 もとは下駄屋かぁ……金玉均(朝鮮開明派の政治家・活動家)の伝記で「東京で有名な唐木細工の名工」とか言われちゃってるから,庵主,唐木細工師の出身だと思ってました…まあ,どちらも木を扱う細工の仕事,ってあたりはいっしょか。

 まあこの『東海三州の人物』はそんなに真面目な本でないので,面白おかしくするためこんなふうに書いてるんでしょうが。「運河の開鑿」てのは明治4年からはじまった「堀留運河」のことでしょうね。浜松から浜名湖を経由して遠州灘に通船させる工事でした。公方さんといっしょに静岡に落ちた士族の困窮対策も兼ねた公共事業だったようで,当時裕福だった源七さんの家も,地元の有力者として協力したのでしょう。「お城の濠」云々ですが,浜松城は明治6年に破壊,本丸以外の土地が売却されてますから,その時の話しなんでしょう----たぶんもとお城の土地を買った,程度の事だったんじゃないかと。7年生まれの娘の駒子さんの出生地が浜松になってますから,少なくとも明治の初年ごろは,浜松に住んでいたようです。推測しますに,「放蕩」というよりは,家でやっていたこうした投資が焦げ付くかして家が傾いたもので,べつだん源七さん本人が「うっひょ~い!」と運河を掘りに行ったり,「ひゃっはーッ!」とシャベル持ってお城のお堀を埋めようとした,というわけではなさそうですよ………たぶん。
 でもまあ言うなら,娘の駒子さんと婿の桂吉さんのなれ初めも,なかなかヒドい(wwほめ言葉)。

  頼母木桂吉と駒子夫人
その頃(*明治三十年代),新聞社に頼母木源七という人が訪ねて来た。この人は明治二十二年四月十四日の「読売」に……広告をだしたこともある楽器師だった。社を訪ねた用件というのは,音楽学校を出た娘に婿を貰いたい,案内広告に出して欲しいということだった。その時,応対したのは職業案内欄を担当していた井上慶吉だった。話を聞いているうちに「なんなら僕が行きましょうか」ということになり…
   (『案内広告百年史』読売広告社年史編纂室 1970)

 うむ……そもそも娘さんのお相手を新聞広告で募集しよう,ってなるあたりに何やら腑に落ちない感はありますが,すわ,未公開優良物件,と見て,すかさずゲットしたほうも目敏い----当時の記事からすると 「月下の美人」 と呼ばれてたそうですからね,駒子さん。
 この新聞社の案内広告担当・井上慶吉が後の頼母木桂吉で,後にこのことを同僚に冷やかされても「案内広告の良いことを,身をもって実践してみせたまでだ」と言って笑い飛ばしてたそうな。まあ源七さんも新聞発刊したりしてた人だからもともと新聞社とは縁があるし,下谷の困窮時代にも書生の世話をしてたとかもあるので,当時そのあたりの,桂吉さんくらいの年の若者たちにとっては顔だったでしょう----ですので,まったくの初対面でこうなったとも思えませんが,後に大臣にまでなる男,この養父にしてこの婿あり,ではありますな。

 ちなみに,この記事の最初に書いてある明治22年に出した広告は,楽器に関することではなく「ある日用品を大量生産できる特許をとったが,都合により専売権を譲りたい」というもの。ここに「金属を以て手軽に製造し」とあるんですが,これが「金属製品を」という意味でなく「金属機械で」の意味だとするなら,常々言っているよう,この人やその後継・山田縫三郎の楽器が,おそらく「西洋式の工作機械で作られている」という庵主の推測の証左となるんですが……まあ金属製品の製造についてのことだったとしても,やっぱり金属も加工できるような機械があったんでしょう,とは考えら得られますな。
 ちな2,こういうヒトの陰で絶対とんでもなく苦労したであろう奥さんの名前は「みせ」さん,弘化2年12月生まれというから夫婦ともに同じ世代。出身地も同じようなので幼馴染かなんかだったかもしれませんな。後に楽器店を継ぐ山田縫三郎も浜松の出ですので,彼も師弟となるにあたってはどちらかの実家の地縁などがあったのでしょうね。

 山田縫三郎のほうの伝によれば,頼母木源七が楽器店を譲ったのが明治28年(1895),理由は「老年を以て」となってますが,この時,源七さんは五十代のなかば。確かに江戸~明治のころの感覚では,孫もいて隠居するような歳ではありますが。上の記事に出てきた娘の駒子さんの結婚はここから十年近くも後ですし,本人かどうか確認はとれてませんが,明治30年代に亀戸までの乗合自動車の運営をはじめた人物に同じ名前の人がいたりもしています----そもそもその前半生から見て,この人が「楽隠居」なんかするとは考えづらいですねえ。
 例の新聞広告を出したのと同じ年,月琴はすでにけっこう売れていたでしょうし,『東京諸職業道案内』にも「クラマエ片丁十八バンチ 明清欧州楽器 頼母木源七」と広告を打てるぐらいにはある程度儲かってたと思われるんですが,それでも新事業を展開しようとしてたくらいです。『東海三州の人物』の書きようほどではないにせよ,多分に山師的なところもあったのでしょう----たぶん死ぬ直前までなんかいろいろやらかしてたんだろうなあ,とは思っています。(w)

 上野の芸大には源七さんの作った清楽器が一セット所蔵されているみたいです。いずれずらっと見てみたいところですね。


(つづく)


« 2024年9月 | トップページ | 2024年11月 »