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月琴65号 清琴斎初記(1)

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斗酒庵,春秋を思ふ の巻2024.4~ 月琴65号 (1)

STEP1 運河を掘ってお城のお堀を埋めた人の楽器が来たよ。

 ちょー久しぶり の自出し月琴,65号。
 楽器自体は春先に落札してたのですが,今年前半はずっと,ウサ琴EX3の製作や清楽DBのほうに邁進してましたしね,夏の間…というより9月・10月になってもこの暑さ----超エコ動力エアコン「大自然」装備の我家では抗う術もなく,この頃になってようやく調査にまで漕ぎ着けました次第。


 さて,楽器はスマートな国産月琴。

 裏面のラベルから作者は 「清琴斎初記」 と分かっております。
 清琴斎----その作者の楽器は,このブログでも何度となく登場しておりますが,それらはすべて「二記(二代目)」山田縫三郎,山田楽器店の作でありました。
 今回の楽器は「初記」,すなわちその山田縫三郎のお師匠さん。
 「頼母木源七」の作なんですね。

 頼母木源七----音楽関係で調べてゆきますと,その名前は 「国産ヴァイオリンの最初期の製作者」 の一人として出てきます。娘の駒子さんは最初期の日本人ヴァイオリニストで上野の音楽学校で長年その教授を続け,数々の演奏者を育て上げた才媛。その娘婿となった頼母木桂吉は,後に政治家として逓信大臣にまでのぼりつめた人物です。

 源七さん自身の肖像や,詳しい伝記は見つかりませんでしたが,娘さんや婿さん,あとその二人の養子にあたる真六さんもみな一廉の人物なので,そういう家族の伝の中から探っていきますと,『東海三州の人物』(伊東圭一郎 T.3)という本に,源七さんについての言及が見つかりました----この記事,そもそもは娘の駒子さんの紹介記事なんですが……筆者,お父さんのほうにかなり筆が寄っちゃってますねえ。


…翁(*源七)は本県珍物伝中の人物にして,駒子の音楽家と為れるも亦た翁の境遇に負ふ所尠からず。翁は素と浜松の下駄商にて可也の資産家なりしが,或は運河の開鑿を企て,或は城濠の埋立を為し又は新聞を発刊して,家産を蕩尽し,落魄して上京せり。然れども生来,世話好きなる翁は米櫃空虚となるも平気の平左にて書生を養い,下谷の困窮生活時代の如き,妻君の分娩する場所なく已むなく隣家の空家で産落としたるが是れ駒子也。而して翁は其後職業を捜がし,当時流行せる月琴の高価なるに着眼して是を廉価に売出せしかば忽ち繁盛し,幾許もなくヴァイオリン其他音楽一式を大規模に製作する事となり,駒子も自然と音楽に親しむ様になれり。
   (伊東圭一郎『東海三州の人物』「洋楽壇の二才媛」より)

 おぅ…なかなかにトンデモな前半生……有難いことに,月琴を作るようになった経緯もさらりと書かれてますねえ。石田不識や田島真斎みたいに,自身も清楽家だったりした人をのぞけば,まあ,みんなだいたいこういう理由だったんでしょうねえ。流行り物は流行ってる時ならどんなものでも作れば売れます。やっぱりお金,お金はすべてを解決するんです!(w)
 もとは下駄屋かぁ……金玉均(朝鮮開明派の政治家・活動家)の伝記で「東京で有名な唐木細工の名工」とか言われちゃってるから,庵主,唐木細工師の出身だと思ってました…まあ,どちらも木を扱う細工の仕事,ってあたりはいっしょか。

 まあこの『東海三州の人物』はそんなに真面目な本でないので,面白おかしくするためこんなふうに書いてるんでしょうが。「運河の開鑿」てのは明治4年からはじまった「堀留運河」のことでしょうね。浜松から浜名湖を経由して遠州灘に通船させる工事でした。公方さんといっしょに静岡に落ちた士族の困窮対策も兼ねた公共事業だったようで,当時裕福だった源七さんの家も,地元の有力者として協力したのでしょう。「お城の濠」云々ですが,浜松城は明治6年に破壊,本丸以外の土地が売却されてますから,その時の話しなんでしょう----たぶんもとお城の土地を買った,程度の事だったんじゃないかと。7年生まれの娘の駒子さんの出生地が浜松になってますから,少なくとも明治の初年ごろは,浜松に住んでいたようです。推測しますに,「放蕩」というよりは,家でやっていたこうした投資が焦げ付くかして家が傾いたもので,べつだん源七さん本人が「うっひょ~い!」と運河を掘りに行ったり,「ひゃっはーッ!」とシャベル持ってお城のお堀を埋めようとした,というわけではなさそうですよ………たぶん。
 でもまあ言うなら,娘の駒子さんと婿の桂吉さんのなれ初めも,なかなかヒドい(wwほめ言葉)。

  頼母木桂吉と駒子夫人
その頃(*明治三十年代),新聞社に頼母木源七という人が訪ねて来た。この人は明治二十二年四月十四日の「読売」に……広告をだしたこともある楽器師だった。社を訪ねた用件というのは,音楽学校を出た娘に婿を貰いたい,案内広告に出して欲しいということだった。その時,応対したのは職業案内欄を担当していた井上慶吉だった。話を聞いているうちに「なんなら僕が行きましょうか」ということになり…
   (『案内広告百年史』読売広告社年史編纂室 1970)

 うむ……そもそも娘さんのお相手を新聞広告で募集しよう,ってなるあたりに何やら腑に落ちない感はありますが,すわ,未公開優良物件,と見て,すかさずゲットしたほうも目敏い----当時の記事からすると 「月下の美人」 と呼ばれてたそうですからね,駒子さん。
 この新聞社の案内広告担当・井上慶吉が後の頼母木桂吉で,後にこのことを同僚に冷やかされても「案内広告の良いことを,身をもって実践してみせたまでだ」と言って笑い飛ばしてたそうな。まあ源七さんも新聞発刊したりしてた人だからもともと新聞社とは縁があるし,下谷の困窮時代にも書生の世話をしてたとかもあるので,当時そのあたりの,桂吉さんくらいの年の若者たちにとっては顔だったでしょう----ですので,まったくの初対面でこうなったとも思えませんが,後に大臣にまでなる男,この養父にしてこの婿あり,ではありますな。

 ちなみに,この記事の最初に書いてある明治22年に出した広告は,楽器に関することではなく「ある日用品を大量生産できる特許をとったが,都合により専売権を譲りたい」というもの。ここに「金属を以て手軽に製造し」とあるんですが,これが「金属製品を」という意味でなく「金属機械で」の意味だとするなら,常々言っているよう,この人やその後継・山田縫三郎の楽器が,おそらく「西洋式の工作機械で作られている」という庵主の推測の証左となるんですが……まあ金属製品の製造についてのことだったとしても,やっぱり金属も加工できるような機械があったんでしょう,とは考えら得られますな。
 ちな2,こういうヒトの陰で絶対とんでもなく苦労したであろう奥さんの名前は「みせ」さん,弘化2年12月生まれというから夫婦ともに同じ世代。出身地も同じようなので幼馴染かなんかだったかもしれませんな。後に楽器店を継ぐ山田縫三郎も浜松の出ですので,彼も師弟となるにあたってはどちらかの実家の地縁などがあったのでしょうね。

 山田縫三郎のほうの伝によれば,頼母木源七が楽器店を譲ったのが明治28年(1895),理由は「老年を以て」となってますが,この時,源七さんは五十代のなかば。確かに江戸~明治のころの感覚では,孫もいて隠居するような歳ではありますが。上の記事に出てきた娘の駒子さんの結婚はここから十年近くも後ですし,本人かどうか確認はとれてませんが,明治30年代に亀戸までの乗合自動車の運営をはじめた人物に同じ名前の人がいたりもしています----そもそもその前半生から見て,この人が「楽隠居」なんかするとは考えづらいですねえ。
 例の新聞広告を出したのと同じ年,月琴はすでにけっこう売れていたでしょうし,『東京諸職業道案内』にも「クラマエ片丁十八バンチ 明清欧州楽器 頼母木源七」と広告を打てるぐらいにはある程度儲かってたと思われるんですが,それでも新事業を展開しようとしてたくらいです。『東海三州の人物』の書きようほどではないにせよ,多分に山師的なところもあったのでしょう----たぶん死ぬ直前までなんかいろいろやらかしてたんだろうなあ,とは思っています。(w)

 上野の芸大には源七さんの作った清楽器が一セット所蔵されているみたいです。いずれずらっと見てみたいところですね。


(つづく)


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