月琴65号 清琴斎初記(終)

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斗酒庵、春秋を思ふ の巻2024.4~ 月琴65号 (終)

STEP7 再考・運河を穿ちお城のお濠を埋めたてた男の楽器

 さて、修理は完了しましたが、今回の楽器について、あと少しおつきあいくださいまし。

 流行当時の広告なんかを見る限り。
 明治の後半において月琴という楽器は、薩摩・筑前琵琶やお箏や三味線という、同時代に一般的であった弦楽器とくらべ比較的安価なモノであったと言えます。そしてまた、この 「安くて手軽な楽器」 という点が、この時期における月琴大流行の一因でもあったと、庵主は考えています。

 しかしながら、以前紹介した 『東海三州の人物』 は、65号の作者・頼母木源七の商業的な成功について----

  当時流行せる月琴の高価なるに着眼して、是を廉価に売出せしかば、忽ち繁盛し…

----と書いてます。
 実際、幕末から明治の初期にかけて、中国から輸入された唐物月琴や、それを真似て紫檀や鉄刀木などの高価な材料をふんだんに用い、一流の職人によりワンオフ製作された国産の倣製月琴は、正確な値段こそ分かりませんが、ごく一部の趣味人のための、新奇な高級品であったことは間違いありません。
 そうしたものと比べるなら、頼母木源七の月琴が「安価」なものであったということは、使われている材料から見ても間違いありません。
 では言葉を変えて----
 実際に目にした頼母木源七の月琴は「安物(ヤスモノ)」だったでしょうか?


 庵主の答えは----"否" です。

 加工の精度、部材の木取り、主構造の堅牢さ、半月の銀象嵌……メインの材料として、比較的手に入りやすい国産の広葉樹材が多く使われている、というその一点を除けば。彼の楽器の品質はかなり頭抜けたものとなっています。

 単純に音を出す道具----「楽器」として見た場合にはむしろ、彼以前からあった外貨獲得のための置物スレスレな唐物楽器や、黒檀や紫檀を多用してカタチだけでっちあげた国産の「高級月琴」より、はるかに優れていると言えましょう。

 もちろん、他の国産月琴の作者たちと同様、棹の角度や内部構造などには、研究不足や知識不足からくる伝統的な設定や構造の間違いが見えますが。少なくとも、その仕上がりと性能を見る限りにおいては、彼の月琴がもし「廉価品の安物」だったと言うのなら、よその月琴はそもそも値札を付けて売っちゃあいけないんじゃないかというくらいのレベル差がありますね。

 実際に見た楽器の仕上がりからも分かりますが、明治20年の『東京府工芸品共進会出品目録』では、頼母木源七の名は楽器と碁盤の両方でそれぞれ別箇に見え、葛生玄の『金玉均』(1906)という本でも、同氏に贈られた唐木細工の碁盤の作者 「東京で有名な唐木細工の名工・頼母木源七氏」 と名が挙げられていますので、明治前半、頼母木源七という人の腕前は、楽器と唐木細工の両方ですでにある程度知られるほどのものであったということは分かります。
 もともとのその腕の良さに加え、当時このレベルのものを「安価」で「大量」に売ることができたのは、おそらく入ってきたばかりの西洋風の加工機械などを積極的に使用したためと考えられます。

 加工痕などから少なくともジグソーやボール盤的なものが使用されたのであろうことは推測できるものの、実際、どのような機械を以って楽器の製作をなしていたかの詳細は分かりませんが、明治22年には新聞社に 「金属を以て手軽に製造し廉価に多数販売可相成日用品」 の専売特許譲渡に関する広告を出しているというので、このころにはすでに何らかの加工機械を入手使用していたのではないかと考えられます。
 細かな部分は従来通りの手工具でやっていたと思いますが、機械加工によって基本的な部材の加工が精密で均一となり、かつ時間や手間が大幅に縮小・軽減され、さらには同じ分量の材料から、より多くの部材を確保することが容易になったというのが、 「月琴の高価なるに着眼して、是を廉価に売出」 すことのできた最大の要因であったのでしょう。
 商業的に似たような効果は、たとえば工程を統一化し細かく割って外注を多くしたり、老舗なら優秀な職人を数多く集めるなどの人海戦術によって、手工具による工作でもある程度は得られたかとは思いますが、手と機械の差は、火縄銃百挺で機関銃一挺に対抗するようなものですし。さらに基本的部分が機械加工であったとしても、もともと腕の良い源七が、そこに仕上げを加えるのですから、多人数を関与させることによる品質のバラつきを考えるなら、そこに商品としても値段の上でも差が出るだろうことは想像に難くありません。

 まあ、何かモノが流行っている時、それを他者より安価に、大量に製造・販売して利益を獲るという、その手法自体はいつの時代でも常套手段なので。同時期彼以外に同じようなことを考え、実行した者が誰一人いなかったとは到底思えず、『東海三州の人物』の記述だけをもとに、頼母木源七を「ハジメテ月琴を機械量産したヒト」みたいに扱うのは、現実的には難しいのですが。
 同じ時期に、同じような目的で作られたと思しい月琴たちの外見が、互いに非常に良く似通っていることから考えると。少なくとも、彼が作り大ヒットさせた楽器が、ほかの量産月琴作者たちにとって、追従すべきフラッグシップ的なモノであった可能性は高かろう、庵主は考えています。


 これらは外見的には関東の渓派の楽器に近しいのですが、渓派の月琴では棹上にある第4フレットが、唐物や関西の楽器のように、胴の縁ギリギリに位置しているあたりが違っています。
 渓派では、流祖・鏑木渓菴の自作の月琴を雛形に、弟子である田島真斎や孫弟子にあたる石田不識といった自身が清楽家でもある作家が、同派の好みに合う楽器を作っていました。坪川辰雄「清楽」(『風俗画報』102,M28)に月琴について 「…棹の長さは天神より八寸位なり、渓菴は之を一尺内外に造れりと云う…」 とあるとおり、渓派の月琴は唐物や関西のものより、棹と糸倉が長くなっていました。
 頼母木源七は東京に居を構えていたわけですから、売れる月琴を作るに際し、楽器全体のカタチを、周囲でもっとも流行っていた渓派のものに準じたことは当たり前の選択ですが。さらに第4フレットの位置を連山派・梅園派と同じにすることで、外見は渓派、スケールは連山派という、どちらの流派でも使えるような楽器としようとしたのかもしれません。


 柏遊堂、柏葉堂、山形屋(石村)雄蔵などの楽器は内部構造の一部を除けば、頼母木源七のものとほぼ同様の外見と寸法、設定となっています。
 馬喰町の菊芳(福嶋芳之助)も、初期のころはあまり他に似ない個性的な月琴を作っていましたが、後期にはこちらのスタイルのものを作るようになっています。また石町の唐木屋の月琴は、基本的には関西で使われていたトラッドな国産月琴のスタイルを踏襲していますが、そのほかに庵主が「唐木屋A」と呼んでいる、こちらに似て棹が細く、よりスマートな楽器も売られていました。この唐木屋の頼母木風月琴は、工作の特徴から下谷黒門町の栗本桂五郎が卸していたのじゃないかと庵主は考えています。

 そのほかラベル不明のものや、そもそも名もなき有象無象作で、頼母木源七とその楽しい仲間たちの楽器にウリふたつといった例は枚挙に暇がありません。庵主は数度しか見たことがありませんが、名古屋の箏師・小林倫祥作の月琴も、これに近いスタイルでしたので、頼母木源七の作り出した月琴のスタイルは、最終的には関東の枠を越え全国的な標準となったと言えるかもしれませんね。

(いちおうおわり)